虚ろな意識の中で自分の身体が触れられていることが分かった。
耳元で囁きが聞こえた。
何となく状況は理解できた。
「No」と小さく口を動かした。
翌朝、ぼくは彼の車でホテルに向っていた。
彼はぼくにホテルに戻らず、滞在中は自分の家に居ればいいと何度も勧めた。そして自分はゲイではなく、バイセクシャルで、ぼくが好きで心配していると言った。
「ぼくはまだ彼女のことが好きだ。それに、一人で大丈夫だから」と返した。
ぼくが彼の車を降りる前、また会いたいと彼に言われ、
「機会があれば」と答えて別れた。
部屋に戻ったぼくはシャワーを浴び、バスタブにお湯を溜めてしばらく漬かっていた。じっとしていると色々なことで思い浮かぶ。気が滅入る。
やがて、ユニバーサルスタジオに向う車がホテルに迎えに来た。
平日でも大勢の人が居たが日本のテーマパークほどではなく、アトラクションを次々に回って過ごした。
夕暮れ時になり、ナイトフライトの迎えの車に乗って隣町にある小さな飛行場に向った。車を降りる頃には夜になっていて、手続きを済ませて案内されたのは小型のセスナ機だった。
パイロットは小柄な若い女性で、少し会話をした後で、
「アクロバットは大丈夫?」と聞かれ、
「問題ない」と答えた。
セスナは今にも墜落するのではないかというような音を立てながら空を舞った。ロスの夜景はキレイだった。
人がはっきり見えるほどの低空スレスレを飛んだかと思えば、今度は旋回をして高度を上げ、どんどん背中が後ろに引かれて真上を見上げて星空が見えた。
その機体がロールをはじめると身体が宙に浮いた。ジェットコースターとは全然違うスリルだった。
遊覧飛行を終えて飛行場に向いながら、
「大丈夫?」と聞かれ、
「最高だよ、あなたの操縦は素晴らしい!」と答えた。
降りた後で整備士に二人で記念写真を撮って貰い、握手をして別れた。
ユニバーサルスタジオでは食事の味も分からなかったが、夜景を見た後のディナーは、気分も晴れて美味しかった。
翌朝となり、ツアーの迎えのバンがホテルの前に来た。既に何人かのツアー客が乗車していて、更にホテルを回って参加するツアー客を拾いながら郊外の国内線用の空港まで向った。
コロラド高原にあるアリゾナ州の空港までプロペラ機で向うのだが、ぼくの隣は多少年齢が上に見える女性だった。
このツアーの中で一人で参加しているのはぼくと彼女だけだった。ぼくよりが、プロペラ機は苦手のようで離陸する前から緊張しているようだった。
「私、プロペラ機って初めてで、、、」と心配そうに呟いた。
「機体が小さいから心配ですよね。でも、大丈夫ですよ。夕べのナイトフライトなんてセスナで宙返りまでしたけど墜落しなかったし」
「宙返り?」
「ええ、特別サービスをして貰いました」
それからずっと下らない話を続けながら目的地へ着陸した。
空港でバスに乗り換えたが、ぼくとその女性は何の違和感もなく隣に座った。話題は窓から見える景色のことが中心で、お互いに一人で来ている理由には踏み込まなかった。
昼食はセットメニューになっていて、彼女がドリンクを運んで来てくれた。
「ねぇ、なんで一人なんだろう?って思っているでしょ」
彼女はじっとぼくの目を見た。
「いえ、ぼくも一人なんで」
ぼくが答えると彼女は視線を外して俯いた。
「本当は二人で来る予定だったんだ・・・」
彼女がポツリと言った。
「ぼくには特に目的はなくて、ただ、ここには代わりに来たんです」
ぼくは日本での幾つかの別れを話し、彼女も彼との別れを話してくれた。お互いに似たような境遇で、これが巡り合せなのかとぼくは思った。
深く侵食された渓谷は何百万年前から何億年前もの姿を晒している。
「せっかくだから楽しまなきゃね」
彼女は笑顔でそう言った。
それからぼくたちはまるで即席のカップルのようにじゃれ合ってひと時を過ごした。他のツアー客からはラブラブだと冷やかされたりもした。お互いにここに居ない誰かの代わりかも知れないが、、
バスはビュースポットを周りながら帰路に着き、アリゾナの空港に着いた。
「楽しかった。あんな景色見てたら、モヤモヤなんて飛んで行っちゃう」
「ほんと、この日のために今までがあったみたいだ」
とぼくが何気なく言った。
少し沈黙があった。
「本当に」
往路とは違い復路の会話は弾まなかった。理由は何となく分かる。
ロサンゼルスの空港に着き、ホテルに戻る車を待った。ぼくと彼女はホテルの方向が違うので異なる車だったが、出発時間まで待合室で向き合う席に座って待機した。
彼女がコーヒーを持って来ると言って席を立った。
「じゃあ、一緒に取りに行くよ」
と言うと、
「その前に洗面所に行くから、待ってて」
と歩いて行った。
気不味い雰囲気ではあったが、楽しかった一日を思い出しながら会話は続いた。しかし、お互いに口に出さない言葉があった。
その言葉は、今のぼくには決して言えなかった。
彼女を送る車が先に来て、握手をしてぼくたちは別れた。その別れ際に彼女から二つに折られたメモ用紙を手渡された。どうやらコーヒーを取りに行った時に書いたらしい。
ぼくは笑顔で彼女を見送って、そのメモを拡げた。
「きっと連絡先が書いてある」とぼくは思い込んでいた。
が、違う内容だった。
短いメッセージだったけれど、読んだら頬が濡れて来た。
≪ 本当に今日はありがとう。おかげでやり直しができそう!
でも、できれば、また会いたいって言って欲しかった。
気持ち、わかるけど、それでも精一杯、生きようよ! ≫
「なんだ、お見通しじゃないか」
ぼくの涙は止まらなかった。
ホテルに戻り、アメリカから送るつもりだった二通の手紙をスーツケースの奥から出した。封筒には初日に買った切手が既に貼ってある。
一通は、ぼくがコピーと呼んでいた女性に宛てたもの。しかし住所は書いていない。そう、届くことがない手紙。
もう一通は、ぼくの自宅に宛てたもの。
ぼくはグランドキャニオンで過ごした一日を思い返した。
何億年も前から続く渓谷の歴史の中の、たった一日の出会いと別れ、短い時間だったけれど、偽りのない楽しい時間だった。
偶然なのか必然なのかは分からない。だけど、欠けた者同士で過ごした愛おしくて素晴らしい一日であったことには違いない。
別れ際に貰ったメモのメッセージを読み返し、深く息を吐いた。
「まだ終われない」
二通の手紙を手で潰して小さく丸めた。それを大きなガラスの灰皿に置き、火を点けた。封筒の端に火が付き、ぐちゃぐちゃに捻じれた紙をゆっくりと燃やして行った。やがて、それは灰となって崩れた。
「帰ろう」
成田行きの飛行機は空席が目立った。行きの飛行機で隣の席だった女子大生は、団体旅行に参加していたが帰りも同じ便だった。行きの飛行機での会話から予約した便が同じことは知っていた。ただ、本当に一緒に帰ることになるとは思っていなかった。
彼女はフライト中にぼくを見付け、自分の席を離れて、空いていたぼくの隣に腰を下ろした。
「ねぇ、どうでした?」
彼女は気さくに話し掛けてきた。
「来て良かったよ。無事に帰ることもできそうだし、色々あったけどね」
「私も良かった。でも、その色々って何?」
「不思議な出会いって感じ」
「えっ?」
「聞きたい?」
「ぜひ」
ぼくは彼女に滞在中の出来事を話し始めた。
おわり