改札前は帰宅する人たちで混み合っていた。約束の少し前に着いたぼくは、相手が誰だか分からないのでなるべく目立つ所に立って彼女から見付けて貰うのを待った。
こうまでして自分に会うことの目的は何なのだろう。色々と思いを巡らせた。行き着く所は二通りだった。一つは、美術部関係の人が自分の演習課題を見て感心し、私の絵を見てくれませんかとか、一緒に絵を描きませんか、と言うパターン。そしてもう一つは、宗教関係の人が私達の仲間になりませんか、と言う有り難いようで有り難くないパターン。
約束の時間が過ぎて行き、段々と改札を通ってに帰る気になって行った。
「5分でいいから会いたいと言って遅刻?すっぽかされた?」ぼくはあと五分待って来なかったら帰ろうと決め、腕時計に目を向けた。その時だった。
「こんにちわ」
顔を上げると、白いエレガントなワンピースを着た髪の長いすらりとした予定外に綺麗な女性が微笑みながら立っていた。
「こんにちわ。木原里美です」
「こんにちわ。赤木です」
彼女は電車で乗り過ごし、それで遅れてしまったと悪びれもせずに言った。そしてぼくが本当に来ていたことに驚いていた。
確かに彼女は講習で一緒だった。知的そうで奇麗な人だったから覚えている。しかし、ぼくは彼女を手紙の差し出し人の候補から完全に外していた。なぜなら彼女はぼくに会いたがるような女性とは到底思えなかった。
「おなかが空いていません?」
「空いていると言えば空いているけど・・・」
「一緒に食事をしながら話しをしませんか」彼女は微笑んでいた。
この時、ぼくは「はめられた」と思い込んだ。これは絶対に宗教関係か新手のマルチ商法か何かの勧誘だと。駅ビルのエスカレータを昇りながら、どうやって体良く断ろうかと考えていた。昔もこんな感じで勧誘を受けて断り切れなかったことがある。
地中海料理屋に入り、テーブルを挟んで向い合せの席に座った。注文を終え、怪訝そうなぼくに彼女も気が付いたようだった。
「何が目的だか早く言えよ、って思っているでしょう」
「えっ、ああ。その通り・・・」
「いきなりあんな手紙を送られたら訳が分からないですよね」彼女は笑顔でそう言った。彼女はお茶を軽くすすった後、持って来た紙袋をぼくに手渡すと呼び出した目的を話し始めた。
彼女の話しによると、ぼくの描いた講習の演習課題に感動し、その感動を本人であるぼくに伝えたかったと言うことだった。頭の中は???だった。
ぼくは彼女から奇麗な紙袋を受け取った。その袋の中には封筒と小さな包みが入っていた。包みの中にはシルバーが基調のペイズリーのネクタイが入っていた。ぼくへの贈り物らしい。それから封筒を開けて手紙を広げた。よく見れば確かに自分宛てのものであることが読み取れた。しかし肝心のメッセージの内容はその場では理解できなかった。
「01 51 4-1 55 3-4 80 3.3 52 65 9|4 71 3-2 4,1」
本当にこれを受け取って良いのだろうか。ぼくが戸惑っている中で、彼女はぼくのデザインに感動したあり様を語り出した。そして疑心暗鬼だったぼくの心は次第に彼女に対して解けて行った。
ぼくはそんな彼女に対して興味を持ち始めて、
「酒を飲みながら、もう少し話さないか」と二軒目を誘った。
二軒目は同僚が居そうもない居酒屋に入った。メニューを見ながらぼくが取り敢えずビールを頼もうとすると、
「私、全然ビールが飲めないんです」と彼女が言った。
「全然飲めないの」と聞くと、
「ワインなら」と彼女は答えた。
ぼくたちはビールとワインで乾杯をし、彼女が料理のオーダーをした。いつの間にかぼくはすっかり彼女のペースにはまっていた。
ぼくは根堀り歯堀りと彼女から質問をされた。彼女はぼくに興味を抱いていた。
週末は何をして過ごしているか。どんな趣味を持っているのか。好きなスポーツは何か。好きな芸能人は誰なのか。好きな女性のタイプ。
ぼくたちはお互いにセラピストにでも打ち明けるように初対面では余り話さないようなことまで話した。ぼくたちの共通点は、絵が好きなこととお互いに小説を書いていると言うこと。そして一致しているようでしていないのがスポーツで、ぼくは自分でするのが好きだったが、彼女は見るのは好きだが自分でするのは苦手だった。
それからも暫く話しを続け、連絡先を交換し、お互いに今書いている小説のことを語り合い、そして二週間後に会う約束をして店を出た。ぼくたちは二人並んで駅のホームまで歩いた。
「赤木さん、忘れないで下さいね」と彼女が言った。
「えっ、何を」 とぼくが尋ねると、
「お互いに小説を持って来ようって、さっき約束したばかりじゃないですか」と彼女は少し口を尖らせた。
「ああ、そのことか」
「ちゃんとしてなくても良いですから、赤木さんの書いた作品を読んで見たいんです」
「多分忘れないよ」
「多分ですか」
「うーん、多分・・・かな」
「えー、酷い!」
彼女は自分のファンになったと言った。それが羨望なのか好奇心なのか、それとも恋愛感情なのかは分からなかった。しかし、そのこと自体がとても嬉しかった。
一般的にファンにとってそのアイドルは手の届かない存在だが、彼女にとってぼくは会ってしまった時点で理想ではなく現実の存在となった。
「次に会う時は、もう木原さんの熱も下がっているかも知れないね」
「今年の夏風邪は直りが遅いんですよ」
駅のホームに立ち、ぼくは下りの電車を待ち、彼女は上りの電車を待った。ホームに着いてからは彼女の口数が少なくなり、沈黙の内に上りの電車が到着した。しかし、彼女は乗り込まなかった。
「どうしたの」とぼくが尋ねると、
「今日は私が赤木さんを見送りたいんです」と静かに答えた。そして、
「最後に、握手をしてくれませんか」と呟いた。下りの電車が到着した。
ぼくたちは握手を交わした。そしてぼくは電車に乗り込み彼女に見送られて家路に着いた。その時の握手は、今まで知っているどのキスよりも切なかった。
原則的に言えば最早ファンとそのアイドルの関係は成立しない。そして彼女は自分にとって友達とも恋人とも違うカゲロウのように触れたら壊れてしまう存在になった。彼女がどうしたいのか、ぼくはどうすれば良いのか、全く分からなかった。
ぼくは彼女のくれたメッセージに何か答えが隠されているのではないかと、必死になって暗号の解読を試みた。しかし、土曜日になっても依然解読ができなかった。
そしてぼくは彼女宛てに手紙を書いた。
≪前略、木原里美様
先日はとても驚いたけどとても楽しかった。
ぼくの絵をあんなに気に入って貰えるなんて、とても光栄です。
せっかく送ってくれたメッセージに気が付かないなんてぼくも間抜けだよね。おまけに未だに解読ができなくて頭を抱えているんだ。
ぼくはキミが思っているほど素敵な男ではないけれど、こんなぼくに興味を持ってくれてありがとう。キミが近付いてくれなかったら、ぼくはキミを知らないままで終わったと思う。キミと知り合うことができて本当に良かった。
今度はぼくがキミに一歩近付きたい。
草々≫