その頃のぼくには恋人はいなかった。理由が云々ではなく、たまたまそういう時期だったのだと思う。だけど、感じが良いと思う女性はいた。


 それはぼくが通っている英会話学校のアシスタントをしている裕子と言う女性だった。ただ、裕子は恋愛対象と言うより、生意気だけど放って置けない妹みたいな存在だった。

 

 裕子と出会ったのは英会話の先生の歓送迎会でのことだった。彼女はとても小さな身体だったが、テキパキと働き子供達の面倒を良く見ていた。それにとても気が利く女性だった。それから機会があるごとに彼女と親しくなって行き、いつからか気心の知れた友達になった。裕子と一緒だった帰りにはいつも彼女の家まで車で送っていた。

 

 宛てどなく続くことになる一通目の手紙を出した翌日の日曜日は、その英会話学校主催のパネルディスカッションがあった。その時のテーマは「国際人の育成と高齢者の役割」で、ぼくは殆ど議論に参加できなかった。

 

 パネルディスカションの後は好例のポットラックパーティーとなった。殆どの人は手料理を持参していたが、ぼくはフライドチキンとアップルパイを見慣れた紙袋から取り出して肩身の狭い思いでテーブルに並べた。


「またケンタッキー?」と言って裕子は並べるのを手伝った。
「マックの方が良かったかな」
「話してくれれば二人分作って来たのに」
「今度は頼むよ」
 裕子が持って来たのはコールスローとパイナップゼリーだった。
「美味しそうだね。ちょっと味見を・・・」
 そう言ってぼくはパイナップルゼリーに手を伸ばした。
「こら、まだダメ。後で!」
「はい、はい」とゼリーから手を離すと、
「後で話したいことがあるんだけどな」と裕子が言った。
「ああ。別に今でも良いよ」
「後で」と裕子は笑顔で返し、
「はい、はい」とぼくはその場を離れた。

 

 パーティーが終わって後片付けが始まった。大抵の参加者は自分の食器を持って会場を後にする。ぼくはいつもボランティアでスタッフを買って出ていて、その日も準備の時から手伝っていた。会場の片付けが大体終わり、他のアシスタントが帰り始めてからも裕子は一人で掃除をしていた。

 

 いつもならのぼくなら不器用ながらも最後まで手伝い、その後に夕飯でも食べながら車で送り、二人で馬鹿な話しでもしたと思う。しかしその日は何か気が引けた。影で悪いことをしているような気分だった。


「裕子、あのさ・・・」
「ちょっと待ってて、もう直ぐ終わるから」
「ごめん。先に帰るよ」
 彼女は手を休めて振り向いた。


「今日はちょっと用事があるんだ。話はまた今度・・・」ぼくがそういうと裕子は少し考えていた。


「そう・・・。分かった」しばらくの間の後、裕子は笑顔でそう応えた。

 

 車での帰り道、ぼくは自分で自分が嫌で仕方なかった。なぜいつものように送ってやらない?ぼくは自問したが答えは出なかった。裕子の存在が邪魔になった訳ではなかった。嫌いになった訳でも、うっとうしくなった訳でもなかった。ただ少しだけその日は距離を置きたかった。

 

 メッセージの解読は難航していて、一週間経ってもまだ意味が分からなかった。複雑に考えれば考えるほど全く意味が通じなくなる。講習の合間にそんなに複雑な暗号など捻り出せるものだろうか。

 ぼくは原点に帰って単純に五十音を五行五列の行列にして暗号を最後まで訳すことにした。どうしても二文字が合わない。これに"あ"と"ん"を補えば・・・。


「なんだこれで良かったんだ」


 その二文字が意識的な引っ掛けなのか単純な間違いだったのか、その時には全然分からなかった。ぼくはどちらかと言えば単純に間違えたものと思い、それが「ポケベルの電文」だと知ったのはずっと後になってのことだった。それを知った時に全てが上手く行かなかった原因を理解できた。

 

 二人は最初からズレていた。それに気付かずに追い掛けても決して平行線が交わることはなかったのだ。しかし、何れにしてもこれで暗号が解けた。
「あなたのセンスにほれました」

 

 ぼくは水彩画で朝顔を描いた絵ハガキを作り、漸く暗号が解けた旨のメッセージを載せてハガキを投函した。電話やメールでは味気ない。


 その翌日、ネクタイのお返しに彼女に贈り物をすることに決め、あれこれ迷った末にトパーズのバングルを買った。そして少し前に書き上げた小説をコピーして手製のバインダーに閉じ、合わせて彼女に贈ることにした。

 

 金曜日を迎え彼女と再会した。待ち合わせは前回と同じだった。ぼくは彼女から貰ったペイズリーのネクタイを締め、何処の店で食事をしようかなどと考えながら彼女が現れるのを待った。

 

 約束の時間を少し過ぎた所で彼女が現れた。なんとなく全体的に感じが違った。彼女は黄色いワンピースを着ていて、髪型も前回は少しカールを掛けていたがその日はストレートだった。


「降りる駅を間違えちゃったんです」と言って彼女は話し始めた。
 席に座って音楽を聴いていたら車内アナウンスを聞き逃し、隣の駅で乗り過ごしたことに気が付いたそうだった。そして出張のついでに尋ねて来る父親と東京駅で待ち合わせをしているので余り時間がないとのことだった。理由は何にしろ拍子抜けだった。

 

 ぼくたちは喫茶店に行って少しだけ話しをすることにした。その道筋で彼女はぼくのネクタイに気が付き、気に入って貰えて良かったと呟いた。ぼくは席に着いて一息した後で彼女に黒い紙袋を渡した。


「何ですか」と彼女が尋ね、
「ネクタイのお返しだよ」とぼくは答えた。


 紙袋の中には、バングルの入った小さな箱とぼくの書いた小説を綴じた和紙で装飾した手製の小さなバインダーが入っていた。
 彼女は袋から先に箱を取り出すと、ぼくに確認をしてから包装と解いてそっと蓋を開けた。彼女はぼくに期待通りの笑顔を見せてくれた。やはりぼくの前にいるのは二週間前と同じ彼女だった。

 

 それから会話は弾み、時が経つのを忘れた。


「良いんですか。こんなに高価な物を」
「気持ちだから」
 ぼくがそう答えると、彼女はバングルを手に取りながら、

「どうしよう。本当に頂いても良いんですか」と言い、再び心配そうな顔をした。
「そのつもりだよ」とぼくが応えると、
「ありがとうございます・・・」と小さく呟いた。


 彼女はバングルの中央に付いている石を見詰めた。


「素敵ですね。何の石ですか?」
 ぼくは直に答えられず、
「トパーズのバングルってなっていたから、多分トパーズじゃないかな」と間の抜けたことを言った。


「トパーズですか」と彼女は繰り返し、
「でも、宝石の類はちょっと疎いんだ」と本音を言うと、彼女は箱からバングルを取り出して左腕に填め、
「でしょうね」と微笑みながらぼくの顔を見詰め、
「似合いますか」と続け、ぼくはその問い掛けに肯き、
「大切にしますね」と彼女が応えた。

 

 それから彼女は袋からバインダを取り出し、壊れ物を扱うようにとても丁寧に表紙を捲った。彼女はとても素直に感嘆した。ぼくが彼女に贈ったのは、半年程前に書いたスキー場を舞台にした小説で、自分で製本した中の八番目の物だった。それは幾つかのストーリーを組み合わせて恋愛と友情をテーマにした軽い調子のシナリオ風の小説だった。

 

 彼女は幾つかの頁を捲った後でゆっくりと表紙を閉じ、表紙を見詰めたままずっと黙っていた。


「この前約束した小説を持って来たんだ」とぼくが言った。
「私・・・何て言ったら良いんだか」
 彼女の顔が少し曇って見えた。
「余り、面白くないかな」
「違うんです」
「じゃあ、どうしたの」
「こんなにちゃんとしているなんて、思ってもいなかったから・・・」
「少しは手間が掛かっているけど大したことじゃないよ。」
「でも、これじゃあ私の小説なんて見せられないですよ・・・」
「どうして」
「だって、恥ずかしくて・・・」
「小説は見てくれじゃないよ。ぼくの場合、中身がない分を体裁で護摩かしているんだ。キミの持って来た小説を読ませて欲しいな」
「まだ全然書き上がっていないんです」
「そんなの全然構わないよ」
「じゃあ、ここでちょと見るだけにして下さい。まだ人に読んで貰えるような段階じゃないんです」

 彼女がぼくに手渡してくれたのはワープロで打ち出した数十枚の原稿だった。彼女の小説は違法な人体実験をしている科学者が主人公で、その主人公の付けている日記を通して物語が進んで行くと言うものだった。


 ぼくが暫く読み耽っていると、
「どうですか」と彼女は不安気に尋ねて来た。
「えっ、ああ。面白いよ」
「本当にそうですか」
「ああ。それに、できればじっくり読みたいな」
「それは・・・」
「この原稿だけでも最後まで読ませて貰えないかな」
「やっぱり、書き上がったら一番に読んで貰いますから、それまで待って下さい」
 彼女の意志は固く、結局ぼくは読み掛けたままで彼女に原稿を返した。そしてぼくが彼女の原稿をもう一度手にすることは二度となかった。

 

 予定よりも大分過ぎてからお互いにそのことに気付き、慌てて喫茶店を後にした。彼女は東京駅での待ち合わせに到底間に合わなくなっていた。ぼくが駅まで急ごうとすると、彼女はぼくを呼び止め、
「一つお願いがあるんです」と小さく呟いた。
「何なの」
「赤木さんの写真が欲しいんです」
 一瞬、何の事だか分からなかった。


「えっ、ぼくの写真。そう言われても・・・」
「実はカメラを持って来ているんです」
 そう言って彼女はバックから小さなカメラを取り出した。


「用意が良いね」
「だめですか?」
「一人だけ撮れれるって言うのはちょっとね」
「一枚で良いんです」
「じゃあ、一緒に映ろうよ」

 

 ぼくたちは駅前でバスの整理をしていた男性にカメラを預け、肩を並べて一枚の写真を撮った。それから二人で急いで駅に向かい、今度はぼくが彼女を見送った。

 彼女との出会いはそんな感じで、それから暫く彼女からの連絡はなかった。

 

 

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