少し風が吹いて来た。肌に当たる風が心地よい。せっかく買ったジュースも余り喉が欲しがらない。紙コップが少しふやけて来た。


 そろそろフィッシャーマンズ・ビレッジを出発する時間だった。ぼくがベンチから腰を上げた時、1台の観光バスが到着し、日本人がゾロゾロと降りて来た。その中に飛行機で隣だった女子大生もいた。

「やあ」
「あっ、来てたんですか?」
「観光なんて、何処も同じなんだね」
「もう出発するんですか?」
「うん。そうだ。良い物をあげる」
 そう言って僕は飲み掛けのジュースを渡した。
「えっ、飲み掛け?」
 彼女の非難は気にせず、ぼくたちは再び別れた。

 

 彼女たちはチャイニーズ・シアターを先に見学して来たようだった。そしてぼくたちの次の目的地はチャイニーズ・シアターだった。

 

 チャイニーズ・シアターの回りは予想通り観光バスが何台も駐車していた。ウォーク・オブ・フェイムは人が溢れ、みんな目当てのスターの手形を探している。そんなにありがたい物とも思えなかったが、ぼくも1枚だけ写真を撮って貰い、次の目的地に向かった。


 ぼくたちは再び車に乗り込み、ホモ通りと呼ばれる所を通ってファーマーズ・
マーケットに向かった。

 ファーマーズ・マーケットに着くと、観光バスが並ぶ駐車場の中に不似合いにも1台だけ黒塗りのリムジンが停まっていた。暫くするとマーケットの奥の方から係員に伴われて見覚えのある小柄な人が歩いて来る。それは日本競馬のジョッキーで、一緒だったカップルの男性の話しでは、きっとアメリカ遠征の途中だろうとのことだった。

 

 リムジンが去って行くか行かないかの内にカップルは時間がないと言ってマーケットの奥に入っていった。ここでは1時間が与えられていたが、ぼくにとってはとても長い時間に思えた。


 マーケットは日本によくある市場とは色合いとか匂いが全然違うがゴチャゴチャとした所は同じようなものだった。特に欲しいと思うような物はなく、一通り見て回った後でマーケットの隣に郵便局があることに気が付いた。

 ぼくは郵便局に入り、売れ残っていた記念切手と、性懲りもなく出そうとしている手紙のための切手を買った。


 手紙の内容も大方は出国前に考えていた。本当に性懲りもない手紙だったが、ぼくにとっては出さない訳には行かない手紙だった。
 この旅行も、その手紙を出すために来たと言っても過言ではなかった。それを投函するには太平洋ほどの広大な隔りが必要だった。

 

「ありがとう。さようなら・・・」
 で彼女への気持ちは断ち切る筈だった。しかし、そんなに割り切れるものではなかった。


「ぼくの何が気に入らないのだろう?」
 ぼくは自分が話した内容や彼女に送った手紙の内容に不手際があったか考えた。
「毎日送ったハガキ!」
 ぼくはハガキに描いた内容を必死に思い返した。あの頃は彼女に一方的に熱中した直後だった。センスを褒められて高熱を出し、ハガキに絵を描いて放熱した。


 それらの絵ハガキは正に自己満足そのものだった。彼女の気持ちを考えず、幼稚な感情をぶつけていたに過ぎなかった。客観的に考えれば正気の沙汰ではない。


「何てことをしていたんだ!」そう悔やんでも手遅れだった。

 

 失恋の後は誰だって不安定になると思う。その頃のぼくの不安定さは夏の終わり高気圧みたいなもので、いつ嵐になっても不思議ではなかった。


 夏の初めに受けた傷の手当てもせず、その痛みを味わうように引き摺っている。傷は化膿し、中から腐って行くのが自分でも分かる。
それでも自分から傷を癒すより、いつか彼女が癒してくれることを待っていた。 そして彼女の幻影を追い始めた。

 

 

 八月の或る週末、ぼくは家の近くの川堰でいつものようにウインドサーフィンをしていた。

 ぼくがウインドサーフィンを始めたのは、入社したばかりの頃の会社が企画したウインドサーフィン教室が切っ掛けだった。


 それは材木座海岸で2日間行われたのだが、ぼくは参加した中でも出来が悪い方だった。ボードの上に立っては落ちるの繰り返しで、その2日間では10m程度しか進めなかった。しかし、その10m走れた時の感触が誰よりも心地良く感じられたのかも知れない。


 ぼくはその後も二人の友人と材木座のスクールに通い続け、友人たちの倍ぐらいの時間を掛けてライセンスを取り、その年は木枯らしが吹くまで殆どの週末を鎌倉で過ごした。それから数年は材木座がホームゲレンデだった。

 

 身近なスポーツの中でウインドサーフィンほど用具に気を遣うものはないと思う。何しろ用具が大きく、レンタルから卒業しても保管場所が問題になる。海の側の艇庫を借りれたとしても、セイリングをするまでには艇庫から海岸まで運び入念なセッティングが必要で、それだけで一仕事となってしまう。


 その上にいつも風待ちで、準備をしたからと言って気持ち良くセイリングができる訳でもなかった。

 そんな理由からか一緒に始めた二人の友人も海から年々足が遠退いて行き、結局はぼくだけが未だにウインドサーフィンを続けている。
 もっとも、ぼくも自身も流石に鎌倉からは足が遠退き、近くの川の堰でセイリングができることが分かり、それからは川の堰がホームゲレンデになった。

 

 川堰でも良い風は入り、長い距離が走れないまでもそこそこセイリングを楽しむことができた。何しろ近く、良い風が吹いてから車を出せばセイリングができ、折角の週末を風待ちで潰されることなどなかった。そんな状況になかったら、きっとぼくのボードも邪魔なオブジェになってしまったに違いなかった。


 それに川堰と言っても、良く晴れた暑い日などは何十艇ものボードが出て、堤防の壁にはカラフルなセイルが並び切らないほどだった。しかし鎌倉などでするのと違い、水着姿のギャラリーなどは皆無で、夕涼みのおじさんが足を止める程度だった。

 

 その日の午後、麦藁帽子を被った割と背の高い女性が大きな荷物を持って堤防の上に現れた。

 その女性は堤防の端に行き、カンバスを広げて絵を描き始めた。逆光の上に麦藁帽子を深く被っていたので顔は分からなかったが、身形からすると二十代前半の女性に思えた。


 女性はセイリングしている様子をカンバスに描いているようで、ぼくは覗きに行きたかったが何となく近寄り難い雰囲気だった。

 

 強めの風が吹き、その女性の帽子が飛ばされた。
 
 その帽子を慌てて取りに行く姿を目で追い、ぼくはその女性が数日前まで追い掛け続けた女性に、とても似ていることに気が付いた。

  

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