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動画をUPしました。3.7 沼田から鎌原までの輝虎との旅④

「道澄さん、これから向かう鎌原村って天明の大噴火で被害のあった場所ですよね」

 コノハさんが私に訊ねて来ました。

 

「そうだね。この時代からは200年以上も先の未来だけど」

 私はそう答えました。

 

 私が知る歴史では、鎌原村は天明の大噴火と呼ばれる1783年の浅間山の噴火で発生した火砕流で、村全体が土石の下に埋まって壊滅しました。570名の村人の中で僅か93名だけが高台の観音堂に避難して助かったようです。このため鎌原村は日本のポンペイと呼ばれています。

 

 私たちが鎌原村に着いた時には沼田を出て二日目の夕暮れになっていました。この時代の鎌原村には観音堂はないようで、吾妻川の近くに真田幸隆の弟である鎌原幸定が城を構えています。浅間山の洞窟の探索を前に、私たちは千代女の計らいで上野と信濃を結ぶ宿場町でもある鎌原村の温泉宿に泊まることになりました。

 

 鎌原村は上野国の端にあり、武田の勢力下になる前は関東管領山内上杉家が支配する土地でした。輝虎殿が来たことは隠されていた筈ですが、どこからか上杉輝虎が洞窟の魔物退治に来たという話が漏れたらしく、宿では盛大に歓迎されました。

 

 凛々しい姿で夕食を頂いていた輝虎殿は、龍蛇退治の前の景気付けだからと千代女に言われて盃を空けるペースが速まっていました。

 

「道澄様、輝虎様とはどういうご関係です?」

 

「上洛された際に知り合いましたが、私欲ではなく世のために働かれる尊敬する方であり、師のような存在です」



  つづく