町田はスキー部の合宿で斑尾高原に来ていた。その日は朝から雪が降り頻り視界も良くなかった。ジャイアントコースを滑り降りて来た町田は自分の位置を知らせるために大きく手を振って合図した。後から来た中山と大口が彼の元に集まって来た。
「これじゃあ練習にならないな」
 と、町田が言った。


「僕なんてもう寒くて死にそうっすよ」
 中山は身体を震わせ凍えていた。


「ちょっと休みましょうよ」
 と、大口が切り出した。


 窓側の一つテーブルに三組のグローブが置かれている。重装備の三人が飲物の乗ったトレイを持って現れた。彼等はそれをテーブルの上に置き、ジャケットを脱いで椅子の背に掛けた後ゆっくりと腰を下ろした。町田は由美から贈られたスキーセーターを着ていた。


「町田さん、その新しいスキーセーター、暖かそうでいいですね」
 中山がそれに気が付いた。


「ああ、このお陰で今日は助かってるよ」
 と、町田が嬉しそうに答えた。


「デザインもいいし、僕も色違いのを買おうかな。何処で買ったんっすか」
「えっ」
 町田は言葉に詰まった。


「町田君の真似なんか止めなさいよ」
 と、大口が言った。


 天井の高い広々としたレストハウスの中にバレンタインデーソングが流れ出した。
「あーあ、合宿で過ごすバレンタインデーか。もう四日も滑っているんだから、何も明日まで年休を取る事なかったっすよね」
 中山が愚痴を零した。


「何か用事があったの」
 と、大口が尋ねた。


「まあ、それは色々あるっすよ。合宿が今日までだったら、ぎりぎりバレンタインデーに間に合うじゃないっすか」
 と、中山が答えた。


「そうは言っても仕方がないよ。休日は混んでるから競技用にゲレンデを貸して貰えないし、かと言ってレースのない練習だけの合宿なんて面白くないもの」
 と、町田が言った。


「町田さんはタイムレースに燃えてるから」
「それより、チョコを貰えないから僻んでるんじゃないの」
 と、大口が中山に言った。


「子供じゃあるまいし、チョコを貰って嬉しがるかよ」
 町田は強がった。


「無理しちゃって」
 と、大口が言った。
 
 ホテルの一角から数十人分の騒がしい声が聞こえて来る。宴会場では合宿の打ち上げが盛大に行われていた。そのステージでは町田が張り裂けんばかりの大声でロックソングを歌っていた。
 歌い終えた町田が中山を入れて近くの女性達と話をしている。大口はその近くの席から町田の様子を伺っていた。暫くして町田がフロントに呼ばれた。電報が届いていると言う事だった。


 町田はフロントの女性から綺麗に装飾された一通の電報を受け取った。それは由美からの物だった。彼はロビーのソファーに腰を下ろし電報を開いた。
 取り留めなく電報を見ている町田の前に大口が現れた。
「こんな所に電報なんて何かあったの」
 彼女は心配そうに町田に尋ねた。


「ああ、ちょっといい事があったんだ」
 彼は照れ臭そうに答えた。


「そう。それならいいんだけれど」
「どうしたんだよ、お前が俺の事を心配するなんて」
「ちょっと二人で話したいんだけど」
 彼女は真剣な顔だった。
「別にいいけど打ち上げが済んでからじゃだめなのか」
 町田は軽い気持ちで答えた。


 二人は宴会場に戻った。中山は町田に近寄ると彼が持っていた電報を取り上げ、酔った勢いで大声を上げて読み始めた。それは町田への愛の告白だった。宴会場は歓声と驚喜の声で異様な雰囲気に覆われた。その宴会場の中で大口だけが沈んでいた。
 
 ホテルのバーのカウンターだった。町田と大口が席を並べていたが、其処には言い争いをしている時の二人の姿はなかった。
「町田君、彼女ができたんだね」
「ああ。それで話ってなんだよ」
「もう済んじゃった」
「済んじゃったってなんだよ」
「これ以上私に言わせないでよ」
「どうしたんだよ」
 彼女は視線を交わそうとしなかった。


「チョコの貰えない寂しい男に救いの手を差し伸べようと思ったけど、何か心配して損をしちゃった」
 彼女の声は震えていた。彼女の頬が濡れている訳を彼は漸く分かった。


「運命って皮肉だよな」
「運命の所為なんかにしないでよ」
「だけどバレンタインデーが一ケ月早かったら俺は寂しい男だったよ」
「一ケ月前でも町田君なんかに渡さないわよ」
「お前からチョコを貰えたら嬉しいけどな」
「今更どうしてそんな事を言うの」
「俺だって、俺だって悩んだんだよ。お前こそ今頃どうしてなんだよ」
 二人は声を荒げて向き合った。暫く見詰め合ったまま沈黙が続いた。


「お互い素直になるのが遅かったのね」
 彼女は涙を流しながら静かに言った。


「ああ、遅かったんだ。もう俺は戻れない」
 彼も静かに応えた。


「きっと素敵な人なんでしょうね」
「ああ、素敵な人だよ」
「今度は愛想を尽かされちゃだめだよ」
「そうだな。努力するよ」
「ちょっと悔しいけど認めてあげる。良かったね」
 彼女は涙を拭った。


「ありがとう。だけど俺はお前と今まで通り喧嘩もしたいよ」
「喧嘩ならいつだってできるわよ」
 彼女の顔に微かな晴れ間が見えた。
 
 オフィスの一角で町田が忙しなく仕事をしている。彼は遠慮する事なく隣の片倉に仕事を頼んでいた。
 町田が一人で残業をしている。その少し離れた所から私服に着替え終えた片倉が彼の様子を見詰めていた。
「町田さん、今日は遅くまで残業をするんですか」
 彼女は歩み寄ると彼に声を掛けた。


「否、もう終わるよ」
「二人で飲みに行きませんか」
 割と落ち着いた洋風の居酒屋だった。奥のテーブルに二人がいた。


「お前から誘うなんてどうしたんだよ」
「町田さんを説得しようと思って」
「説得するのは俺の方だろ」
「どうしても分かってくれないんですね」
「俺は頑固だからな」
「私が辞めたら町田さんの立場も悪いですものね」
「馬鹿、俺がそんな事を気にすると思うか」
「そうですね」
「俺はプライベートな事に首を突っ込まない主義だけど、そんなに分らず屋でもないから少しは俺に相談をしろよ」
 飲み物が運ばれて来た。彼女は酎ハイで彼は大ジョッキの生ビールだった。彼は言い終えると早速ジョッキに手を掛け一気に半分ぐらいを飲んだ。彼女は微かに笑った。
「どうかしたか」
「いいえ。只、町田さんって家の兄に似ているんですよ」
「片倉のお兄さんに」
「ええ、それで可笑しくって」
「お兄さんって何をしてるの」
「会計士だったんです。でも二年前に事故で死んじゃいました」
「ご免、知らなかったんだ」
「構わないですよ。それに町田さんと一緒に仕事をする前の事ですから」
 彼女はそう言って話を続けた。


「私の父は小さな会計事務所をしているんです。兄は父と折り合いが悪かったんです、だけど漸く一緒に仕事をするようになって。その矢先でした、兄が自動車事故を起こしたのは。家族中がショックを受けました。中でも父は相当ショックだったらしく一時は事務所を閉めようとしたんです。それでも立ち直って仕事を続けていたんです。だけど段々と気が弱くなってしまって、それで私に家を継いで欲しいって頼むようになったんです。初めは冗談だと聞き流していたんですけど、去年の兄の命日を過ぎてから真剣に考えざる得なくなってしまって、私はずっと悩んでいたんです。それで私は父の仕事を手伝いながら会計士の資格を取ろうと決心したんです」
 彼女が話し終えると彼は暫く黙っていた。


 その間に店員が料理をテーブルの上に並べたが、二人は手を付けようとしなかった。
「好い加減な気持ちじゃないよな」
「はい」
「絶対だな」
「はい」
 彼はジョッキを取って残りのビールを飲み干した。


「お前の言った通り俺の方が説得されちゃったな」
「じゃあ、分かって貰えたんですか」
「ああ。だけど、どうして今まで俺に話してくれなかったんだ」
「誰にも話してなかったんです。町田さんに初めて話したんです」
「課長には話したんだろ」
「課長には家の事情としか言っていません。
 課長はそれで了承してくれましたから。でも町田さんに止められて嬉しかったですよ。誰にも止められないで辞めるなんて悲しいですからね」
「だけど俺は自信を失いそうだったよ」
「済みません。私の所為ですね」
「片倉が謝る事じゃないよ。俺自身に問題があったんだ」
「いいえ、私の問題なんです。実は、私には学生時代からの彼がいたんです。彼にもこの事は相談していました。だけど私の決心は彼に分かって貰えませんでした。それで別れたんです。町田さんと揉めたのは丁度その時期なんです」
「そうだったのか」
「それで町田さんに甘えて、無理に困らせたり、八つ当たりをしていたんです」
「俺は甘えられているとは思わなかったよ」
「だから私にとって町田さんは、死んだ兄の代わりだったんです」
「兄に反抗する妹か。じゃあ、片倉のお兄さんも大変だったろうね」
「そうだったかも知れませんね」
 二人はそう言うと笑い合った。
 
 夜の闇に延々と車のブレーキライトが浮かんでいる。大月付近の中央自動車道の上り線はいつものように渋滞していた。殆ど車の上にはスキーの板が乗っている。その中に二本の板を乗せた町田のワゴンがあった。


 車内ではFMラジオが軽快な音楽を聴かせている。ハンドルを握る町田の隣には由美がいて彼の話を聞いていた。


「俺の初めてのスキーは車中二泊、宿三泊の岩岳へのバスツアーだったんだ。六人で行ったんだけど俺だけが全くの初心者で、矢部にスキーなんか簡単だからって言われて無理矢理連れて行かれたんだ」
「矢部さんらしいですね」
「俺は朝一で崖のように見えた正面ゲレンデに連れて行かれたんだ。嵌められたと思った時にはもう遅くて、昼の集合場所だけを教えられて俺は置いて行かれたんだ。俺は矢部を恨みながら下に辿り着くまでに何十回も転んで、その度に二度とスキーなんかやらないって思ったよ」
「ちょっと悲惨ですね」
「更に宿が悲惨だったんだ。スキーロッジなんだけど設備も飯も酷くて、部屋なんて裸電球の灯る四畳半に三段ベットが二つあるだけなんだ。もう最悪だったよ」
「そんな目に遭ってどうしてスキーを続けているんですか」
「俺にも分からないな。それにいい事がなかった訳じゃないんだ」
「いい事ってなんですか」
「宿の飯が酷いから外に出たんだ。だけど岩岳って何もないんだ。アフタースキーもないのかと思ったら一軒の店が開いていたんだ。昼は喫茶店で夜は居酒屋のアジトって言う店なんだけど唯一の救いだったよ。酒も料理も旨かったしオーナーが凄くいい人なんだ。夜は三日とも其処に行ったよ」
「アジトって名前もいいですね。私も行ってみたいな」
「俺も行きたかったけど、矢部の話ではもう潰れてしまったんだって」
「それは残念。だけど町田さんてそれから岩岳に行かなかったんですか」
「ああ、行ってないんだ。別に敬遠している訳じゃないんだけど」
「岩岳の時は誰もスキーを教えてくれなかったんですか」
「否、流石に良心が痛んだらしくて午後からは橋本が付きっ切りで教えてくれたよ」
「橋本さんって優しいんですね」
「ああ。それに俺にとっては橋本がスキーの先生なんだ」
「町田さんよりスキーが上手いなんて、八方で一緒に滑るのが楽しみだな」
「それに今度行く八方のペンションが今の俺達のアジトなんだ」
「楽しみだな」


 二人の会話が弾む中でFMラジオから定時のニュースが流れ出した。その中で山梨県の山中で死体が発見され、それが不正融資事件で指名手配されていた支店長だと判明した事が伝えられた。そして警察は状況から見て逃亡の末に事件を苦にした自殺と言う見方をしているらしかった。
 
 町田の部屋だった。彼は矢部からの電話を受けていた。
「橋本が行方不明になったんだ」
「なんだって」
「橋本の家から電話があって、もう一週間近く帰って来ないんだって」
「なんの連絡もないのか」
「ああ、なんもないらしい」
「単なる家出とは思えないし、変な事になっていなければいいんだけどな」
「そうなんだ。橋本の家でもそれを心配しているんだよ。ほら、支店長の事もあるしさ」
 
 会社の帰りに町田と矢部が橋本の家を尋ねていた。橋本からはまだ連絡がなかった。二人は心配をしている両親にできるだけの協力はすると言って家を後にした。二人が門の外に出ると少し離れた所に人影があり、二人に近付いて来た。矢部は彼女が誰であるのか分かったらしかった。
「橋本の上司の相原さんですよね」
 と、矢部が尋ねた。


「そうです。二人は橋本君の友達でしょ」
「ええ」
「ちょっと時間を取って貰えないかな」
 三人は近くの喫茶店に入った。彼女は免職になったが、起訴が取り下げられ一昨日釈放されていた。そして部下だった橋本が行方不明だと知った彼女は、心配になって家の前まで来たが自分の置かれている立場を考えて門の前で迷っていたと二人に話した。


「橋本君に学生時代からのスキー仲間がいるって聞いていたの。だから二人が出て来た時に直感的にこの人達だなって思ったわ」
 と、彼女が笑顔で言った。


「俺はあなたのような人が例の課長だなんて思っていませんでしたよ」
 と、町田が応えた。


「もっとおばさんだと思った」
「ええ」
「酷いな。どんな人間だと思っていたの」
「そうですね、少なくとも余り綺麗な人だとは思っていませんでしたね」
「じゃあ、私を見てどう思うの」
「予想とは随分違ってましたね」
 町田は彼女のペースで会話を続けた。
「相原さん、俺は橋本からあなたとの関係を聞いているんです」
 と、矢部が言った。


「そう。橋本君、あなたに話していたんだ」
 彼女は平静を装っていた。


「俺は橋本に、お前は遊ばれているんだって言ったんです。そうしたら橋本は凄く怒りながら、それでも俺は幸せだし愛している事に変わりはない、と言ってましたよ」
「何を言っているのよ・・」
 彼女の笑顔が曇った。


「あなたはどう思っているんですか」
「私だって、・・私だって愛しているわよ」
「俺が誤解していたんですね。済みません」
「いいのよ。私は酷い女だから。・・でも、どうして一人でいなくなってしまうの」
 彼女の頬に涙が伝わった。
 
 ミーティングブースで町田が打合せをしていた。其処に片倉が来て、彼に電話が入っている事を告げた。
 町田が電話を取った。矢部からだった。彼の声は弾んでいた。
「仕事中にごめん。だけど一刻も早く知らせたくて。橋本が見つかったんだ」
「なんだって」
「あいつが行方不明になったんで、その事をペンションのおじさんに話そうと思って電話したんだ。そうしたら橋本がいたんだよ」
「白馬にいたのか。橋本らしいな」
「ああ。橋本はペンションで手伝いをしながら居候していたんだ」
「本当かよ。あいつふざけてるな。それで橋本と話したのか」
「ああ、話したよ。あいつ、これだけ心配を掛けた癖に元気なんで呆れちゃたよ」
「でも、良かったよ」
「本当だな」
「家には連絡したのか」
「それが話さないでくれって言うんだ。だからまだ連絡してないんだ」
「でも連絡しない訳には行かないだろ」
「ああ。居場所が分かった事だけでも話そうと思ってる」
「そうだな。それでどうする気なんだ」
「暫くは向こうにいるらしい。それに退職届を書いて銀行に送ったみたいだ」
「それも仕方ないな」
「ああ。色々あったからな」
「スキーはどうするんだ」
「予定通りだよ。橋本も待ってるからな」
「そうか、皆で迎えに行くんだ」
「そうだよ。じゃあ、白馬で会おう」
「ああ、白馬で会おう」
 町田は笑いを堪えながら受話器を置いた。

 

【戻る】【第4話】【第6話】