ゼミ合宿最後の夜

 

 夏休みに行われた大学のゼミ合宿、その最後の夜だった。避暑地とは思えないほど蒸し暑かった。僕たちは合宿最後の宴会の続きを部屋でしていた。

 

 仲間の一人が酒に酔って愚痴を言い出し、それが延々と続いた。しらけた雰囲気でお開きとなり、消灯した矢先だった。

 

「おい、しっかりしろよ! 俺は分かったぞ。そうだったんだ」

 

 一人が起き上がり、愚痴を言っていた仲間の上に伸しかかった。その彼は仲間を拳で叩き出した。

 普段の彼は口数が少なく、大人しくて真面目な性格だ。僕とは気が合って、合宿中も一緒にテニスをしたり、書きかけの卒論を見せ合った。ついさっきまでの食堂での宴会でも、一緒に楽しく過ごしていた。

 

「止めろよ! 落ち着けよ」

 

 何人かで直ぐに止めに入ったが、彼は押さえ付けられないほど力が強い。

 

「俺たちは生きて行けるのか? どうすればいいんだ。これから日本の将来はどうなるんだ! 呼ぶぞ! 呼ぶぞ!」

 

 愚痴を聞かされて怒り出し、酔った勢いでの喧嘩と思ったが、どうも様子が違う。

 

 彼は立ち上がり、興奮しながら部屋の外に出た。単に酒に酔って暴れているわけではないようだった。

 

「先生の部屋に行こう!」

 

 そう叫ぶと彼は走り出した。

 

 叩かれた仲間は顔から血を流していた。僕は他の仲間と直ぐに彼を追った。

 

 彼は部屋のドアを壊さんばかりに叩いている。

 

「先生、俺たちどうすればいいんですか? どうすれば生きて行けますか?」

 

 先生が部屋から出てきた。

 

「みんなこれからやって行けますか? 貼られたレッテルどうしますか? 終末がやって来ますよ、どうしますか?」

 

 彼は先生に質問をしたが、戸惑う先生が答える間もなく彼は話し続けた。

 

「先生、卒業させてくれますか? 卒研が完成しなくても良いですか? このことをレポートにしてください。先生がレポートを書いてくれれば日本は大丈夫です」

 

 次第に言葉は支離滅裂となり、愚痴を言っていた仲間のことや、亡くなった肉親のこと、世界や自分の将来などを繰り返し叫ぶようになった。

 

 彼は真剣そのものだった。決して酔っておらず、額から汗を流しながら必死に答えを求めていた。ただ正常な顔つきではなかった。

 

 思い返してみると、合宿の初日から様子がおかしかった。

 

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 彼は帰省先の実家から車で合宿に参加をしたが、道に迷ったようで彼が到着したのは初日の夕方だった。

 

 その日の夕食後、一つの部屋に集まって酒を飲んだ。その途中から真面目な話題となって議論が始まった。しかし彼はその議論に加われなかった。

 

「難しくて俺には分からないよ」

 

 と彼が言った。

 

 僕も酒を飲んで議論するのが好きではない。

 

 彼とは割と気が合い、彼にとって僕がゼミ仲間の中で一番話し易い相手のようだった。彼は既に就職先が決まっていたし、卒業研究が遅れているわけでもない。ただ、研究をどう進めるべきか迷っているようだった。

 

 翌朝、僕が布団の中でぼんやりしていると、彼が自分の布団を突然跳ね上げた。

 

「なんで俺は起きちゃったんだろう」

 

 彼が起きた後、僕も起き上がった。そして熟睡している仲間の一人の顔に、マジックで悪戯書きをした。彼はその途中で笑い出し、僕が静かにするように合図を送っても笑いが止らなかった。

 

 その笑い方は大袈裟で、今から思えば普通ではなかった。それから朝食の時間まで彼は一人で何かを考えていた。

 

 朝食後、みんなで車に乗り合って、少し離れたテニスコートに向かった。僕は彼の車に乗って移動する。彼は車を運転しながら、前夜の会話に加われなかったことを気にしていた。それに恋愛の悩みを相談された。

 

 昼食の時間になり、近くのレストランでみんな一緒にお昼を食べた。しかし彼が注文したのはレモン味のカキ氷だけだ。テニスをした後なのに、彼は食欲がないと言っていた。

 

 それから午後もテニスを続けた。その後は夕食の時間まで遊びに行く者と、宿舎に戻る者とに分かれた。僕と彼は宿舎に戻る。

 

 宿舎に帰ると入浴して汗を流し、食堂に集まってトランプなどで遊ぶことになった。しかし彼だけは部屋に残り、夕食の時間まで一人で横になっていた。

 

 冷静に思い返せば、彼の合宿に来てからの行動は、僕が知る普段の彼とは違っていた。それが予兆だったのかも知れない。

 

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 合宿の最終日、夕食後に食堂で宴会が開かれた。仲間の一人がギターを弾き、それに合わせてみんなで歌う。その楽しい時間には、彼もその中にいた。

 

 夜が更け、部屋に分かれて宴会の続きをする。しかし彼は酒を飲まずに先に布団に入っていた。仲間の一人がしつこい愚痴を言い始め、それが収まって消灯した直後に彼が暴発した。

 

 彼は愚痴を言っていた仲間を叩き、叫びながら先生の部屋に向かう。そして大声で先生に意味不明の質問をする。その騒ぎに気づき、宿舎の管理人がやってきた。

 

 彼は管理人から注意されると大声で謝ったが、それで静かになることはなかった。管理人は彼の態度に怒り出し、直ぐに出て行けと言い放った。

 

 管理人が横暴に思えたが、彼も頭を冷やした方が良いと考え、みんなで彼を外に連れ出そうとした。しかし彼は暗闇を恐れて拒絶した。彼の抵抗する力は尋常ではなかった。

 仕方がないので両脇を固め、暴れる彼を先生の部屋に入れた。彼は先生や他の誰かが話しかけても、何も受け答えができなくなっていた。

 

 彼が単なる酔っ払いではなく、正気を失っているのは誰から見ても明らかだった。みんなは心配をしながらも戸惑って、彼の周囲で見ているだけだった。

 

 しばらく僕が彼を宥めることにして、それでダメなら救急車を呼ぶことにした。僕は彼が怖くなかったし、不思議と理解し合える気がしていた。

 

 当時の僕は、卒業研究とは別に夢や精神や宗教の研究をしていた。心の病にも多少の知識がある。彼の状態をオカルト的に表現すれば、悪霊に憑依されたとでも言うのだろう。

 しかし、病的には統合失調症の症状だった。彼を正気に戻してやりたいと思った。

 

 彼を座らせて自分も横に座ると世界の終焉について自説を話した。すると彼は反応し、ノストラダムスの予言など世紀末的なことを次から次に質問して来た。

 彼は自分が知りたいことには聞く耳を持っていた。

 

 彼の質問に自分の世界観や宗教観で答えた。やがて質問が就職や恋愛のことに変わり、次第に彼は落ち着きを取り戻した。

 

「ねえ、みんなで考えよう。みんなを呼んで、みんなで考えよう」

 

「ああ、明日になったら、みんなで考えようよ」

 

「分かった。ごめんね。ごめんね、みんな」

 

 いつもの彼に戻ったわけではない。それでも、もう暴れたり叫んだりする気配はなかった。

 

 彼は一人で立ち上がり、先生の部屋を出る。殴られた仲間も何も言わなかった。

 

 先生と話し、翌朝まで彼の様子を見ることにして、全員が各部屋に戻った。彼はトイレに寄ってから部屋に戻り、仲間が布団に入ったことを確認して彼が消灯した。

 

 僕は明日になれば元の彼に戻っていると信じていた。しかし一度壊れた心は簡単に修復などしなかった。

 

 

 朝を迎え、僕が目を覚ますと、彼は着替えを済ませ、静かに荷造りをしていた。きっと僕たちを起こさないように気を遣っていたのだろう。僕は布団から出ず、寝た振りを続けて彼の様子を窺っていた。

 

 彼は荷物を時間をかけてゆっくりとバッグに詰め込んでいた。そして収まりが悪いのか、バッグから荷物を何度も出したり、入れ直したりしていた。やがて荷造りを終えたようだった。

 

「俺は分かったぞ」

 

 彼はそう言って部屋を出た。

 

「俺は分かったぞ!」

 

 同じ言葉を大声で叫び、彼は廊下を走りだす。が、直ぐに自分から走るのを止めた。

 

「みなさん、起こしてすみませんでした」

 

 彼の声が聞こえ、布団から起き出して部屋を出ると、彼は先生の所に向かったようだった。

 

「ご迷惑をかけてすみませんでした」

 

「うん。分かれば良いよ」

 

「とても恥ずかしいです」

 

 彼は先生の部屋の前で謝っていた。先生は受け止めるだけで、彼を注意したり責めたりしなかった。先生は心理学が専門だった。気が済んだ彼は先生の部屋の前から離れた。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

 彼が僕に応えた。

 

 彼は余り眠れなかったのか、目が充血し顔色も悪かった。そして僕は彼と一緒にトイレに行った。トイレには、彼が昨夜殴ってしまった相手もいた。

 

「夕べはごめん」

 

「もう良いよ。気にするなよ」

 

 謝罪も応答も決して嫌味な感じではなかった。これで収まってくれれば良かった。

 

「俺は気にするよ!」

 

 彼の形相が急変した。

 

 彼は掴みかかって相手のメガネを手にすると、メガネのフレームを握りつぶしてしてしまった。そして彼はポケットから車の鍵を出すと床に叩きつける。

 

「そうだ。この鍵のせいだ」

 

 彼は次第に興奮状態となる。僕は慌てて隣に並び、彼の肩を強く抱いた。彼は両親のことを繰り返し口にするようになった。

 

 異変に気づいてみんなが起きて集まる。管理人も来て再び彼を注意したが、今度は彼が反抗して口論となった。

 彼は今にも管理人に飛びかかりそうで、僕は必死に彼を抑えた。

 

「お前なんか客じゃない。早く出て行け!」

 

「出て行くよ!」

 

 管理人に反発した彼は、僕を振り切って裸足で外に飛びだした。

 

 直ぐに彼を追った。彼は駐車場の奥で倒れ、他の仲間に取り押さえられていた。

 

 彼に近づくと、まるでオウムのように幾つかの単語を繰り返し呟いていた。立たせようとすると抵抗し、砂利の上を転がり回る。みるみるうちに身体が傷だらけになっていった。

 

 そして彼は手に取った砂利を口に入れ、頬張って食べはじめた。

 

 砂利を食べる音がする。仲間が目の前で壊れてゆく。悲しくて仕方がなかった。

 

「もう止めろ!」

 

 彼の顔を平手で叩いた。

 

 彼の目をしっかり見ると、彼は虚ろな目で僕を見返した。それから彼は抵抗をしなくなった。

 

 彼は不思議と僕の言葉には耳を傾けたが、もう心を開くことはなかった。

 

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 先生と僕を含めた何人かで、彼を近くの病院に連れて行くことにした。ワンボックスの車が一台あり、彼を囲みながら後部座席に乗った。

 彼は目を開いたまま無反応な状態だったが、対向車や歩いている人を目にすると声を上げた。特に赤の車に対して異常な反応をした。

 

 小さな病院に着き、まだ診療開始には早かったが彼と一緒に診察室に入る。彼は医師から名前を聞かれても、自分が誰だか答えられなかった。僕が昨夜からの彼の症状を医師に説明した。

 

 医師は彼の腕に注射を打ち、専門科での受診を勧めた。待合室で紹介状や会計を待っていると、彼は次第に正気を取り戻した。しかし、暴れたり騒いだことを全く覚えていない。

 

 一度宿舎に戻ると、事態を理解した管理人は、僕たちに非礼を詫び、食事を準備してくれた。僕たちは先生と遅い朝食を食べながら、今後の方針を話し合った。

 

 そして全員で紹介を受けた病院に行き、その後はみんなで彼を実家まで送り届けようと決めた。

 

「大学生活の良い記念になるよ」

 

 と誰かが言った。

 

 彼は少しづつ昨夜から今朝に掛けてのことを思い出し、みんなに反省の言葉を伝えた。もう殴った相手や管理人を見ても興奮することはなかった。薬の効果かも知れないが、彼はすっかり正気に戻っていた。

 

 宿舎を出る際、彼は自分で車を運転すると言い張った。しかし宥められて車を仲間に任せ、彼は再びワンボックスの後部座席に乗った。僕は車で合宿に参加していたので、自分一人で運転することになった。

 

 僕が彼と一緒の車ではないので、不安を口にする者もいた。しかし僕の車の保険は家族限定だったし、もし彼が再発したら、運転しながら彼の相手などできるわけもない。

 

 先頭は先生の車で、次が彼の乗るワンボックス、その直ぐ後ろが僕の車だった。何台かが連なって紹介された総合病院まで一時間ぐらい車を走らせた。その病院では診察に先生が付き添い、僕たちは待合室で待機した。

 

 戻って来た彼は、自分が精神科を受診したことに酷くショックを受けていた。そして自分からは全く喋らなくなっていた。受診前より悪化したように見える。先生が彼の実家に電話で連絡をしたが、家族は状況がよく理解できないようだった。

 

 病院を後にして、再び車を連ねて彼の実家を目指した。その途中に休憩を取ったが、そのときに彼の様子が再び変わった。まるで別人のようだ。二つ目の病院を出るときには落ち込んでいたが、休憩時には口数が多く、明るく元気になっていた。

 

 夕方になり、彼の実家のある町に入った。彼を家族の元に届ければ長かった一日も終わる。しかし彼の明るさが逆に気になった。するとワンボックスが停車した。

 

 道路の脇に車を停め、ワンボックスのドアを開けると彼が車内で暴れていた。意味のない言葉を叫び、周囲に唾を吐き、僕が声を掛けても目を合わせることができなくなっていた。

 人通りのある道だったので騒ぎは目立ち、直ぐに交番から一人の警官が駆けつける。しかし警官も彼を取り押さえることはできない。救急車が呼ばれ、救急隊が彼の家族に連絡し、家族のかかりつけの病院に運ばれた。

 

 病院に着き、彼は両脇を救急隊に掴まれて診察室に入る。僕も彼の症状を医師に説明するために診察室に通された。しばらくすると奥から年配の医師が現れた。

 

「おい、久し振りだな。さっき、お母さんから電話があったよ。どうした?」

 

 医師は親しそうに彼に言った。

 

 彼は救急隊の腕を払い、自分から医師の傍に歩み寄った。

 

 バチン、と鈍く大きな音が診察室に響いた。

 

 彼は医師の顔を思い切り平手で叩いてしまった。医師の顔が見る間に紅潮する。

 

「ダメだダメだ。狂っている。他に連れて行ってくれ!」

 

 医師は激高して吐き捨てるように言うと、奥に引っ込んでしまった。

 

 救急隊の一人が奥に行ったが、取り合って貰えないようだった。彼は診察も治療も受けられず、診察室の外に出された。僕は心神喪失の相手を、一時の感情のままに拒絶した医師に強い憤りを感じた。

 

 自分の車をその病院の駐車場に停め、今度は僕が救急車に乗り込んで違う病院まで付き添った。もう彼に掛ける言葉はなかったが、不思議と彼は僕には暴力を振るわなかった。僕が近くにいると安心するらしい。

 

 救急車が着いた先は精神科の専門病院だった。救急車から彼を降ろすと、手馴れた職員が可動式のベットに彼の身体を固定する。そして直ぐに病棟の奥に連れて行った。彼は虚ろな顔で何かを呟いていた。それが彼を見た最後になった。

 

 その病院はコンクリートの高い塀に囲まれ、今日訪れた他のどの病院とも建物の造りが違った。それに独特の雰囲気がした。しばらくして僕は仲間の車に乗り、自分の車を取りに行った。

 僕が自分の車で病院に戻った頃には、既に夜となっていた。彼は薬を打たれて病室で眠っているらしかった。

 

 先生は家族に病院が変わったことを知らせたようが、まだ誰も来ていなかった。家族は病院を変えられたことに憤っているようだった。

 

「なぜこんなことになったのか?」

 

 そんなことは分からない。後のことは先生に任せ、僕たちは先生から労いの言葉をかけられて病院で解散した。

 

 一緒に行動した全員が疲れていた。帰り道、途中で何度か休憩を取ったが、誰も多くを語らなかった。僕たちは仲間を守ろうとして守り切れず、人間の弱さや脆さを知った。忘れたくても忘れられない一日となった。

 

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 僕はそのゼミ合宿の数年前に別の友人を排気ガス自殺で失っていた。その友人が死を選ぶ数日前に友人に誘われてドライブをしたが、その時には自殺を考えている素振りなど全くなかった。

 

 同じことが繰り返されないことを願った。

 

 夏休み明けの先生の話では、彼の母親は彼の病気を認めなかったようだ。合宿から戻った息子が傷だらけで入院をしているのだから、僕たちは感謝されるどころか加害者のように思われたかも知れない。

 

 しかし彼は退院後に母親の目の前で病気を再発して再入院をし、ようやく母親も彼の病気を認めたらしかった。そして彼はそのまま休学した。

 

 卒業後に大学をリクルーターで訪ねたとき、先生から彼の心がまだ戻っていないと聞いた。何かの切っ掛けで人間は突然狂気に落ち、そして心を硬く閉ざしてしまう。

 

 

 アニメ『進撃の巨人』の中で『アニ・レオンハート』は『女型の巨人』になって多くの市民を殺した。自分の正体が発覚して逃亡が無理だと分かると、彼女は水晶体の中に閉じ籠って長い眠りについた。

 

 彼は水晶体には包まれていないが、同じように心を閉ざした。もう、誰の呼びかけにも答えない。

 

 僕には水晶に閉じ籠った『アニ』の気持ちが分かる。その『アニ』が結晶から解かれたように、いつか閉じた心が戻ると信じている。

 

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