第2章:深まる秋の相模路

2.5 小沢の坂の不思議な女性


 船は相模川を渡り切り、対岸の小沢の船渡場に着きました。船から降りた私たちが小沢の坂を登っていると、坂の途中にある神社の階段に綺麗な女性が立っていました。

「こんな夕暮れ時に川を渡って来るなんて、これからどこで何をするんだい?」

 女性が先頭を歩く道澄さんに声を掛けました。

 

「すみません。急ぎますので失礼します」

 道澄さんはそう言って女性の方を向くこともなく横切りました。

 

「随分と連れないねえ。おや、あなたは随分と面白い恰好をしているね」

 次に私が声を掛けられました。

 

「私たちはこれから三増の悪霊と餓鬼を浄霊しに行くんです。夜になると危険だから安全な所に早く非難した方がいいですよ」

 私は歩きながら女性に応え、横を通り過ぎました。

 

「浄霊とはご苦労なことですね。首尾を楽しみにしていますよ」

 私は背中に寒気を感じて振り返りました。

 

「消えた!」

 ついさっきまで立っていた女性の姿がありません。 

 

「あの女性からは人ならざる気配を感じました。彷徨う霊であれば供養をしてあげたいが、今は時間が惜しい。なんとか日暮れ前に箕輪の名主殿の屋敷に入りたい」

 道澄さんが足を止めずに言いました。

 

 

 「実は、この辺りには長尾景春の乱の際に太田道灌に攻め滅ぼされた小沢城の怨霊が出るという話があるんです」

 二郎さんが私に近付いて来て教えてくれました。

 

「城坂の有鹿姫でしょ」

 アキが続きました。

 

「はい。この地を北条氏が治める前の話と聞いていますが、小沢には堅固な城があり、その姫が婚約先の海老名氏の館に滞在中に城が攻められたそうです。姫が戻ると既に城は燃えていて、望みを失った姫は崖から相模川に身を投げ、その身は龍蛇となって荒れ狂いながら川を下り、海老名の有鹿神社の裏の河原に死体が打ち上げられたそうです。それからこの坂を女性が花嫁衣裳を着て通ると災いがあると言われています」

 

「二郎さんはとても物知りなんですね」

 私は説明してくれた二郎さんにそう応えました。

 

「ありがとうございます。この手の伝承には目がないんです」

 二郎さんはとても嬉しそうでした。

 

「でも、消えた女性が有鹿姫なら、誰も花嫁衣裳なんて着ていないのにね」

 

「コノハのその格好が奇抜だから、それで目を付けられたのかも」

 アキが意地悪そうに言いました。

 

 確かに私は部活動の途中でこちらに来たので学校の制服のままでした。

 

 

 小沢の坂を登り、私たちが箕輪の名主さんの屋敷に着く頃にはすっかり日が暮れていました。名主さんの屋敷の周囲には松明が幾つも焚かれ、武器を持った見張りの方が立っています。そして敷地の中にはお年寄りを除くと男性ばかりが大勢いました。

 

「沢山の方が避難しているんですね。でも女性は殆どいないのですね?」

 私は道澄さんに訊ねました。

 

「男性は日中に荒れた田畑を片付けたり、放置された死体を埋葬する必要があるので、夜だけここに避難しています。ただ、餓鬼が食糧を食い漁るだけでなく、女性を襲うので、若い女性は一時的に離れた神社やお寺に避難をしているのです。ここも二晩続けて襲われていて、昨夜は危ない所でした」

 道澄さんが答えてくれました。

 

 中にいる人たちはみんな疲れた顔をしています。その人混みの奥から名主と思われる身形の良い男性が出て来ました。

 

「道澄様、お戻りでしたか。本当に我々などのために申し訳ありません」

 

「いえ、これが私の務めですから。田名の名主殿の所で食糧援助は話が纏まり、取り敢えず持てるだけ持って来ました」

 

「おお、それはありがたい。それでこちらの方々は?」

 その男性が私たち三人を見て言いました。

 

 

「田名近隣の神社や寺からの助力は無理でしたが、浄霊の弓が使えるコノハ様に来て貰えました。そして、こちらが田名の名主のご息女のアキ様と護衛の二郎殿です」

 道澄さんに紹介されてアキは少し照れているようです。

 

「そうですか。それはありがたい。アキさん、お父様には感謝致します」

 

「戦渦とは言え、この度の災難、心からお悔やみを申し上げます。父の代理で参りましたが、田名を代表してご助力させて頂きます」

 アキは私の予想に反してちゃんとした挨拶をしていました。

 

「コノハ様の衣装は見たことがないものですが、これは巫女服なのですか?」

 

「まぁ、そんなものです」

 私は制服を巫女服として通すことにしました。

 

 私たちは屋敷に上がって夕食を食べながら、襲って来る悪霊と餓鬼のことを詳しく教えて貰いました。

 悪霊は実体がないので直接的な被害はないですが、恐怖を感じると取り憑かれるそうです。餓鬼の方は夜の間だけ死体が蘇ったもので、人間の何倍も食欲や性欲が強く、既に死んでいるので何度倒しても起き上がって来るようです。ただ、夜が明けると元の死体に戻るので、昼の内にできる限り埋葬しているということでした。

 

「どれぐらいの数の悪霊と餓鬼が出るのでしょうか? それと出る範囲に何か決まりがあるのですか?」

 二郎さんが訊ねました。

 

 

「一晩で数十体が群れとなって出ます。私が来てから既に悪霊と餓鬼を百体以上は浄霊しました。戦いが激しかったと思われる場所に近い集落から襲われ、段々とこちらに近付いて来た感じです。襲撃して来る方向が決まっているので、もしかしたら目指す場所があるのかも知れません」

 

「確か、三増峠の戦いでは両軍合わせて四千人を越える死者が出たと聞いているので、まだ埋葬や供養を終えていない遺体が多いのであれば、その死体の数だけ際限なく悪霊と餓鬼が現れる可能性もあると言うことですよね」

 私は道澄さんの答えを補足したつもりでしたが、重い雰囲気にしてしまいました。

 

「確かに数は楽観できません。しかし、悪霊も餓鬼も何者かに操られているような気配があるのです。恐らく一晩に現れるのは数十体なので同時に操れる数に限りがあるのだと思います。本来の悪霊や餓鬼は集団で人を襲うことなどありません。操る者の正体を暴いて倒すことができれば、夜毎に襲撃されるようなことはなくなる筈です」

 道澄さんは力強く発言しました。

 

 それから私たちは、この屋敷で悪霊と餓鬼をどう迎え撃つか話し合いました。その最中に偵察に出ていた人が戻って来て、餓鬼の群れがこちらに向かっていると伝えてくれました。

 

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