第2章:深まる秋の相模路

2.2 日金沢の鏡の泉


 県道沿いの歩道から『ロマン探訪の小路』に入ると、入口付近はよく整備されています。ただ整備されている分だけ、人が来ることも多く、飲食をした後のゴミが幾つか捨てられていました。

 顧問の先生を入れた歴史研究部のメンバーは、そのゴミを回収しながら奥に進み、相模線の線路脇に出る狭い木道の坂を上りました。この辺りまで来るとゴミは落ちていません。

 

 私は三増峠の戦いのことを質問しようと顧問の先生の横に並びました。

 

「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですが」

 

「どうしたの?」

 

「三増峠の戦いって、どんな結果だったか知っていますか?」

 

「ええ。地元のことだからよく知っているわ」

 

 先生は私に話し出しました。

 

 三増峠の戦いは、1569年永禄12年に相模に侵攻した武田信玄が小田原城を包囲して攻め切れず、城下に火を放って甲斐に帰る途中の10月8日にあった愛川町が戦場の合戦です。武田軍2万対北条軍2万の戦国最大規模の山岳戦で、史書「甲陽軍艦」には北条軍3,269人、武田軍900人の戦死者を出したと記されているらしいです。

 

 この戦では、双方に自刃に纏わる似たような逸話があると言います。

 

 

 武田軍が甲斐に撤退する際、その一部が北条軍から追い討ちを受けながら山中を甲斐へと向かっていた。しかし甲斐への道中では見える筈のない海を見て、道を誤って敵国へ深く踏み込んでしまったと思い自刃した。それは海ではなく、蕎麦畑の白い花が海に見えただけだったが、それ以来、その村では自刃を悼んで蕎麦を作ることをしない。

 

 北条軍の戦死者は三千人を越え、敗れた北条軍が山中を逃げている途中で収穫後の畑に差し掛かり、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍がひしめき合っていると見間違え、逃げる術がないと悟って自刃した。自刃した落ち武者を供養するために、その周辺の畑ではトウモロコシを作らない。

 

 そうした自刃の悲劇と共に、ヤビツ峠の餓鬼憑きとか合戦場周辺には悪霊が出たと言い伝えられていて、合戦場の記念碑の近くには今でも戦死者を弔う首塚と胴塚があるそうです。

 

 私は先生から悪霊や餓鬼の話を聞き、あの動画の内容が嘘ではないように思えて来ました。しかし、父の実家に動画のURLがずっと昔から保存され、そのパスワードが私の誕生日とペットの名前で、動画の音声が自分の声に似ていました。それが全く理解できません。

 

『どうして私に見せたかったのだろう?』

 私はそう考えながら小路を歩きました。

 

 

 小路は途中で2つのルートに分かれますが、今回は『鏡の泉』と呼ばれる湧き水が出ている場所まで行き、そこで折り返して学校に戻ることになりました。

 

 鏡の泉は、照手姫の乳母の日野金子が産湯に使ったり、照手姫が鏡代わりに使ったと伝わっている小さく浅い泉で、沢蟹が生息している澄んだ水です。この辺りは日金沢という地名ですが、昔は彼岸沢とも呼ばれていたそうです。

 

 私が鏡の泉を覗き込むと、波紋が広がる水面に着物姿の女性が映っているように見えました。

 

「あれ? これが私なの」

 

 水面が揺れて姿が掻き消え、私は不思議に思って泉の方に腕を伸ばしました。すると泉に映っている手が私の手を掴み、私は引っ張られて泉に落ちました。

 

 次の瞬間、私は落ちた筈が泉から飛び出ていて、そこには私の手を掴んでいる着物姿の女性が腰を突いていました。

 

「誰?」

 

「私はコノハ。あなたは?」

 

「私はアキ」

 

 鏡の泉から湧き出た水は『照手姫の里ロマン探訪の小路』を横切って相模川の支流である姥川に流れ込んでいます。その姥川の反対側には住宅が立ち並んでいる筈ですが、まったく見当たりません。

 私は大きな声で先生や仲間を呼びましたが何の返事もありません。時代は分かりませんが、タイムスリップでもしてしまったのかも知れないと思いました。

 

 

「あなたってどこから来たの? なんで?」

 

「なんでって、あなたに手を引っ張られたから。どこからって言われても」

 

「もしかしたら未来じゃない?あなたは私の子孫でしょ」

 

 アキという女性に言われて私もそうではないかと思いました。彼女は家の用事でこの近くの庄屋さんを訊ねた帰りに照手姫の伝承がある鏡の泉を見に来たようでした。鏡の泉はこの時代では『未来の姿が映る泉』と言われているそうです。

 

 私は鏡の泉にもう一度落ちれば元の世界に戻れるのではと思い、再び泉の中に足を入れました。でも、足首まで冷たい水で浸かっただけで、何も変わりません。念のためにポケットからスマホを出しましたが、予想通り圏外でした。私はイザという時のためにスマホの電源をオフにしました。

 

「それって何?」

 アキはスマホに興味津々でした。

 

 私は離れた所の人と話したり、見ているものを記録したり、それを映すものだと説明し、アキの写真を撮って見せてあげました。

 

「未来って凄いなぁー。でも、この場所って未来も同じ鏡の泉なんだ」

 

「うん。私の時代の方が少し小さいけど大体同じ。でも、川の向こうには家が沢山あるよ」

 

「へー、そうなんだ。所で、これからどうする?」

 

 他に頼る者も行く宛もない私は、アキと一緒に彼女の家に向かうことにしました。

 

 

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