朝の通勤電車の中だった。由美はお土産の袋を下げて満員電車に揺れていた。彼女の頭の中には苗場での町田の姿があった。


 彼女は町田と過ごしたスキー場での一時を一つ一つ思い返していた。そしてレストランでの別れ際の場面に行き着き、記憶は一時停止状態になった。彼女は幾度となくその場面を再生して彼の細かな態度を分析し、心理学者のように思い巡らすと溜息を吐いた。そして彼女の物語を台無しにした男の顔に大きくX印を付けた。


 社員食堂のテーブルに制服を着た由美の姿があった。彼女の回りには洋子と智美の姿もあり、食事をしながら昨日までのスキーが話題で盛り上がっていた。
「由美って男の人にいつもバリアを張っているから、私は男嫌いなのかと思ってた。由美の理想って町田さんみたいなタイプの人なんだ。あの手の男はこの会社にはいないよね。あんな邪魔が入らなければ運命的な出会いの続きがあったのにね」
 智美がそう言った。


「それで、保険の方はどうなったの」
 と、洋子が尋ねた。


「うん。保険会社の方から町田さんに連絡を取るから、私は何もしなくていいって」
「それなら面倒臭くなくて良かったね」
 智美がそう言った。


「でも由美にしたら良くないのよ」
「どうして」
「だって、それだと彼に会う機会はもうないじゃない」
 と、洋子が智美に答えた。


「あっ、そうか、口実がなくなるものね」
「彼の連絡先は聞いているんでしょ」
 洋子がそう尋ねると彼女は頷いた。


「そんなに彼の事が気になるのだったら、改めてお詫びの電話ぐらいはしてもいいんじゃない。後の事は知らないけど」
 洋子がそう続けた。


「でも、絶対に誤解していると思う」
「じゃあ、縁がなかったと諦めるの」
「私にも自分の気持ちが分からないの。どうしたらいいんだろう」
「彼との出会いが運命であったとしても、もう扉は閉じているのよ。その扉の鍵は由美の方が握っているんだから躊躇する余地なんてないんじゃない」
 と、洋子が彼女を急かした。彼女は箸を止めたまま暫く考えていた。
 
 小さなテーブルの上に水色の電話が置かれている。大きなクッションの上に腰を下したパジャマ姿の由美が受話器を持たずに話すべき台詞を繰り返している。彼女は壁時計に目を向けた。時間は丁度九時半になろうとしていた。彼女は手帳に書かれた電話番号を確かめると注意深く電話を掛けた。呼び出し音が鳴り始めた。


 由美が電話を見詰めながら小さなテーブルの上で頬杖を突いている。壁時計は十一時を回っていた。電話が鳴り出し、彼女は受話器を取った。
「はい、成瀬です」
「もしもし。私、洋子だけど、どうだった」
「ううん。まだ帰って来てないみたい」
「そうなんだ。彼、仕事なのかな、それともデートだったりして」
「どうなんだろう」
「じゃあ、今日はもう電話しないの」
「うん」
「自分の気持ちは分かったの」
「うん。もう一度、彼に会いたい」
「そうか。上手く行くといいね」
「ありがとう」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 彼女はゆっくりと受話器を置いた。
 
 出張先から町田が戻ると、彼は上司から呼ばれた。そして片倉が会社を辞めたいと言って来たと告げられた。彼はその事について何も聞いていなかった。
「町田君、知らないじゃないだろう。君が彼女の上長なんだからね。君の指導がまずかったんじゃないのか」
「はい、それもあるかも知れません」
 彼は少し考えた上でそう応えた。


「まあ、家の事情と言う事だし、正当な理由があれば、こういう景気の悪い時期だから差し支えないんだけどね」
「しかし、業務に支障がありますよ」
「ああ、君達が進めていたあのプロジェクトの事か。あれは先方の都合で延期になったよ」
「本当ですか。今日だってその事で打合せをして来たんですよ」
「まあ、そうだろうね。午前中の役員会で決まったそうだよ。少し前に私も連絡を受けたばかりなんだ。まあ、この不況では仕方がないだろうね」
「そんな・・」
「まあ、中止になった訳じゃないから、君には引き続きこのプロジェクトのフォローをして貰わないと困るがね」
「そうですか・・」
「彼女も三月一杯は勤めるそうだから、まあ色々と問題はあるだろうけど二人で仕事を続けてよ」
「プロジェクトの延期の件は分かりました。しかし片倉の件はもう少し待って下さい」
「それで、どうするんだね」
「彼女と話し合ってみます」
「ほー、説得でもする気なのかね」
「そうです。いけませんか」
「まあ、君に任せるよ」
 町田が自分の席に戻って来た。彼の隣の席は片倉だった。しかし暫くはお互いに無視していた。そして町田が片倉に声を掛けた。
 
 二人は喫茶店の奥のテーブルにいた。
「課長に辞めたいって言ったんだって」
「そうです。町田さんは私なんかがいなくても困らないでしょ」
「そんな訳ないだろう。どうしてだよ。俺は全然知らなかったよ」
「だって町田さんに話したら、また怒られるだけだから」
「また怒られるか、多分そうだろうね」
 彼はそう言って、コーヒーを口にした。
「家の事情って聞いたけど、本当はどうなんだよ」
「本当ですよ。父の仕事を手伝うんです。それに町田さんには関係ない事でしょ」
「関係なくないだろ。今の仕事はどうするんだよ」
「今のプロジェクトは延期になったんでしょ」
「延期になったって仕事がなくなった訳じゃない。それに、ならばこそ向こうの役員が納得するような提案活動だってしなきゃならないんだ」
「それなら町田さんが一人でやればいいじゃないですか」
「そんなに俺と仕事をするのが嫌か」
 彼女は何も答えなかった。
「確かに俺は他の奴と較べれば厳しいし、仕事の進め方も強引だよな。自分でも俺みたいな奴と一緒だったら全然仕事が楽しくないと思うよ。だけど今まで二人で上手くやってたじゃないか。どうしてなんだよ」
「町田さんの所為じゃないですよ。私自身の問題なんです」
「考え直せないのか」
「ええ」
「俺はプライベートな事には一切干渉して来なかった。だけどこれだけは認めない」
「分かって下さいよ」
「俺はこれからも今まで通り片倉に接するし、辞めるなんて最後まで認めないよ」
 彼はカップを手に取るとコーヒーを飲み干した。俯いた彼女はカップの中の微かな波紋をいつまでも見詰めていた。
 
 部屋の中は暖房が効いていて快適な温度になっていた。シャワーを浴び終えた町田が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。彼はビールを口にしながらソファーに腰を下ろすと、テレビを付けてチャンネルをニュース番組に合わせた。ニュースでは橋本が勤める銀行の不正融資事件の続報を伝えていた。町田は真剣な顔で画面に見入った。


 事件は内部告発で始まった。経営陣は担当だった課長に一切の責任を負わせ、不正融資とそれに関連する横領の罪で告訴した。逮捕された彼女は罪状を認めながらも誰かを庇うように肝心な事については曖昧な供述を繰り返すだけだった。しかしマスコミを通して再び告発があり、二週間近く無断で出社していない支店長に容疑が掛かった。単身赴任だった支店長のマンションが家宅捜査され、容疑を裏付ける書類の他に麻薬を常用していた形跡が残されていた。


 町田は橋本の事が気になった。彼は直感的に橋本が内部告発をしたのではないかと思った。それは橋本の性格からすれば十分に考えられる事だった。そしてその事で橋本は苦悩をしているのだと思った。町田がそうして橋本の事を考えていると電話が鳴り出した。
「はい、町田です」
「あっ、成瀬ですけど、分かりますか」
「ああ、そりゃ分かるよ。そう言えば会社の方に保険会社から連絡があったけど、その事かな」
「ええ、そうです」
「それだったら心配しなくていいよ。前にも傷害保険で請求をした事があるし、手続も簡単だから」
「それで、保険とは別に私の方で何かお詫びをしたいんですけど、どうですか」
「お詫びなんて気持ちだけでいいよ」
「でも、それだけでは私の気持ちが済まないんです」
「そんなに責任を感じなくていいよ。それに保険を適用する以上は加害者が被害者に直接接触するとまずいんじゃないかな」
「それは分かっているんです。だけど・・」
「だけど何なの」
「あの、もう一度会って貰えませんか」
「えっ、どうして」
「この前は変な別れ方だったし、それにお詫びだけじゃなくてスキーを教えて貰ったお礼もあるから」
「結構律儀なんだね」
「私なんかと二度と会いたくないですか」
「そんな事ないよ。だけどその必要もないと思うんだ」
「私には必要なんです」
「俺なんかに関わっても仕方ないよ。どうしてなのかな」
「会いたいんです。それだけの理由じゃだめですか」
「分かったよ。だけど結構強情なんだね」
「じゃあ会って貰えますか」
「ああ。何時何処にしようか」
「都合が良い日ってありますか」
「そうだな、週末は空いてないけど平日の定時後だったら都合が付けられるよ」
「明日はどうですか」
「別に構わないよ」
 二人は待ち合わせ場所を決め、暫く話を続けた後で電話を切った。
 
 落ち着いた喫茶店の窓側の席に町田と由美が向かい合って座っている。
「月曜日も電話をしたんですけど、ずっと留守でしたね」
「ああ、帰りが遅かったからね。確か帰ったのは一時過ぎだったよ」
「仕事ですか」
「答え辛いな。実は月曜までスキーに行っていたんだ。それで遅くなったんだよ」
「そうだったんですか。私はてっきり残業かデートだと思っていました」
「俺の場合、残業はあってもデートはないよ」
「どうしてですか」
「それは自分の意志の及ばない所に原因があるんだ」
「どう言う意味ですか」
「つまり仕事はあっても相手はいないって言う事だよ」
 彼女は町田の顔をまじまじと見た。


「町田さんってモテそうですけどね」
「所詮はそのモテそう止まりなんだよ」
「私だったら放って置かないけどな」
「おいおい、そんな事を彼に聞かれたらどうするんだ」
「町田さんは誤解しているんです。私には彼なんていません」
「えっ、そうなんだ」
 二人の会話は途切れ、その後は不自然な沈黙が続いた。暫くして彼女は大きな紙袋を取り出した。


「あの、これは私からのお詫びとお礼の気持ちです」
 彼女は町田に贈り物を手渡した。


「ありがとう」
「気に入って貰えればいいんだけれど」
「そう言われると中身が気になるね」
「開けて下さい」
 彼は包装紙を丁寧に剥がし箱の蓋をゆっくりと開けた。箱の中には鮮やかなスキーセーターが入っていた。


「ありがとう、大事にするよ」
「良かった、気に入って貰えて」
「何かお返しをするようだね」
「お返しなんていらないですよ」
「でも、これって結構高いんじゃないの」
「そんなに高くはないんですよ」
「何か返って悪い事したね」
「そんな事ないですよ。そうだ、代わりと言ってはなんですけど、私の相談に乗って貰えませんか」
 
 御茶ノ水のスキー専門店街は平日だと言うのに会社員や学生で独特の賑わいを見せていた。どの店の前にもカラフルなスキーウェアやスキー板が所狭しと並べられている。
 町田がブーツを手に持ち、試着コーナーに現れた。その先には由美がいた。
「さっきは真剣な顔をして相談があるって言うから、何事なのかと思ったよ」
「だってブーツ選びは大変なんですよ」
 彼女は笑顔でブーツを受け取った。


 町田は店の入り口付近で小物を見ながら由美が会計を済ますのを待っていた。その時、彼の肩が叩かれた。
「よお、何をしてるんだ」
 それは矢部だった。


「なんだ。お前こそどうしたんだよ」
「ちょっと付き合いでね」
 二人の前に大きな紙袋を持った由美と裕美が揃って現れた。

 

 気取らないイタリアンレストランの洒落たテーブルに大きな皿が幾つも並んでいる。そのテーブルを囲むように四人が座っていた。
「二人を見てると何か大食い競争みたい」
 裕美は呆れ顔だった。


「町田につられて食べちゃうんだよ。こんな馬鹿みたいに食べる奴は内のサッカー部にだっていないぜ」
「それは俺の言う台詞だよ」
「相乗効果なんですね」
 由美は二人を楽しそうに見ていた。


「そうだ、彼女も八方に誘えば」
 と、矢部が言い出した。
「いきなりなんだよ」
 町田は少し渋い顔をした。


「それはいい考えね。町田さんの彼女だったらスキーも上手いだろうし、私達だけカップルって言うのも不自然だから」
 と、裕美は同意した。


「ちょっと待ってよ」
 町田は戸惑いの表情を見せた。


「なんの話ですか」
 と、由美が尋ねた。


「三月の終わりに学生の時からの仲間で八方に行くんですよ。それにこいつも参加するんですけど、一緒に行く事になっていた友達が行けなくなっちゃって代わりを捜してたんですよ」
「こいつも参加するなんて、ちょっと酷いんじゃない。元はと言えば、絶対に足の骨を折るぞなんて、矢部君が脅すからこうなったんでしょ。あんな言い方をしたら誰も行きたがらないわよ」
「それはそうだけど、でも俺は言い過ぎだと思ってないけどな。メンバーがメンバーだから普通の女の子は誘えないよ。会社の連中で行くスキー旅行とは訳が違うからね」
 と、矢部が裕美に反論した。


「私なんかが行ってもいいんですか」
 由美は遠慮深く慎重に尋ねた。


「成瀬さんのスキーは町田が筋がいいって誉めてたし、それに学生の時からの仲間って言っても、ほら苗場の時の連中だから」
 矢部はフォークを振り回しながら答えた。町田は同意も反対もしなかった。彼は押し流されて行く自分の姿にある種の抵抗感を抱いていた。そして、そんな彼の様子が分かったのか由美も態度を保留した。
 

 電車の長椅子に町田と由美が並んで座っている。車内は比較的空いていて、彼女の足元にはスキーブーツの入った大きな紙袋が置かれていた。
「不思議だね。毎日隣の駅から通勤していてお互いに知らなかったのに、スキー場であんな形で出会うなんて」
 と、町田が呟いた。


「そうですね。でも私は分かった事があるんです」
「分かった事って」
「出会いは幾らでもあるけれど、それを運命の出会いにするかどうかは当事者がその鍵を握っているって事です」
 と、由美が答えた。


 到着を告げるアナウンスが流れた。


「じゃあ私は此処ですから」
 彼女は立ち上がった。


「今日はありがとうございました。また会って下さいね」
 彼女は彼の目に訴え掛けた。


「ああ」
 彼が静かにそう答えると、彼女は笑顔を見せてドアの方に向かった。しかし彼の目は彼女を追わなかった。


 彼にはこの一時で全てが決まる気がしていた。そして相手のペースで事が運んで行く事に戸惑っていた。別に彼女が嫌いと言う訳でも、誰かに遠慮をしなければならない訳でもない筈だった。彼の頭に大口の顔が過った。


 それは心の隙間の僅かな迷いだった。


 電車のドアが開き、彼女は他の乗客達に押し出されるように外に出た。彼女はその中で彼の視線を求めて必死に振り返ろうとした。しかしそれが叶う事はなく、その直後にドアは閉じられた。彼女は立ち止まったまま走り出した電車を物寂し気に見送った。電車の最後尾が彼女の前を過ぎて行き、彼女はそれを見届けてから歩き出した。彼女は俯き、その足取りは重かった。後ろから降りた人達が足早に過ぎて行き、彼女の後ろにはもう誰もいなくなった。彼女の前に誰かが立ち止まっていた。彼女はゆっくりと顔を上げた。それは町田だった。


「どうして」


「今度は俺が鍵を使う番だから」
 と、彼は彼女に優しく声を掛けた。

 

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