第2章 過去編:千々石ミゲルの日記

第8話 京での新しい生活、そして出会い


1596年4月

 

 バテレン追放令が続く中、私のような身分の者が九州の天草から船で移動できるとは、誰が想像しただろうか。私は九州から外に出ることはないと思っていた。長崎からの船旅は大阪で終わり、やっと京に到着した。ローマまでの大航海とは比べるまでもないが、小さな船で沿岸を進むため、揺れるばかりで気持ち悪かった。私にとって船旅は苦手だ。

 

 天草での修行を思い出しながら、伏見の城下に到着した。マンショ、ジュリアン、マルティノと共に修練院で過ごした日々は、私の信仰の土台となった。特にマンショとは、よく神学について熱く語り合ったものだ。彼らと別れてからも、その教えが胸に刻まれている。彼らもそれぞれの任地で信仰を深め、勉学を続け、教えを広めていることだろう。私も彼らに負けてはいられない。

 

 この京には何とも言えぬ魅力がある。川のせせらぎ、木々の緑、そして都の風情。でも、何より驚いたのは、豊臣秀吉様の城下にある、この教会の存在だ。

 

 帰国前、マカオでバテレン追放令の公布を聞いた時は、大友宗麟様と大村純忠様が天に召されたことを知った以上の驚きだった。5年前に聚楽第で謁見するまでは、私は秀吉様を恐れていた。しかし、実際にお会いした秀吉様は、とてもお優しい方であられた。私とマンショ、ジュリアン、マルティノの楽器演奏を聴かれ、大変喜んでおられた。その姿は今でも忘れられない。堅固に建てられた教会を見れば、実質的には今でも秀吉様の保護を受けていることが一目でわかる。

 

 私は京の伏見にある教会に司祭様の補佐として着任した。これから教会の仕事を行いながら、司祭様の下で勉学に励むのだ。特に、ローマで学んだ神学や哲学を、こちらでの説教や教育に生かしていきたいと考えている。ただ、秀吉様のお膝元なので、布教には細心の注意が必要となる。私たちはお目溢しをされているに過ぎない。

 

 念のために私は、京の滞在記録を自分しか理解できないように残すことにする。誰のためでもなく、主の御心に沿っていたか、日々振り返るのだ。

 

「千々石ミゲルです。これからこちらの教会でお世話になります。よろしくお願いいたします」

 

「ミゲル様、初めまして。よろしくお願いします。私たちは皆、あなたがローマに行かれたというお話を聞いて、とても楽しみにしていました」

 

 新しい仲間たちも親切で、すぐに打ち解けられた。京の教会での仕事は、九州とはまた違うけれど、信仰の根っこは同じ。そして、この伏見の教会には、独自の伝統や文化があるようだ。教会でミサを捧げる司祭様の声は深く、共に祈る人々の顔には、どことなく安堵と希望が見える。

 

 初めてのミサで、私がローマでの経験に基づいた説教を行った後、多くの信者から温かい言葉をかけてもらった。ローマとは違い、こちらの信者は日本の風土に根ざした信仰を持っている。それでも、私の話を興味深く聞いてくれたことに感謝している。

 

 それから数日後、私が教会から外出する際に彼女と出会った。教皇様への使節として8年半を過ごし、帰国後の私は仲間たちと共に勉学を続けたが、漫然とした日々を過ごしていた。しかし、この出会いは何か特別な意味を持っているような気がした。

 

「こんにちは。この教会、どうでした? 面白いでしょ」

 

「こんにちは。とても良い教会だと思います。先日からこの教会で司祭様のお手伝いができ、光栄だと思っています」

 

「あっ、新しく来た教会の方ですか。修道着ではないので、てっきり一般の方かと思ってしまいました。私はたま。こちらに出入りをしている商家の娘です。ちょくちょくこちらに伺っていますので、よろしくお願いしますね」

 

「よろしくお願いいたします。私は千々石ミゲルと申します」

 

「えっ、ミゲル? ミゲル様って、ローマに行かれた方ですか?」

 

「はい。ローマ教皇様への使節でした」

 

「失礼いたしました」

 

「いいえ、お気になさらないでください」

 

 たまの父親は洗礼を受けているキリスト教徒で、イエズス会と取引をしている。その父親の仕事の関係で、たまは教会によく通っているらしい。彼女はとても明るく、その笑顔には何か引き込まれるものがある。そして、彼女はなんとも不思議な香りをまとっている。何か甘い果物の香りが、海外で過ごした日々を思い出させる。

 

「ミゲル様、これから外出ですか?」

 

「はい。まだ着任したばかりで疎いので、周辺を見て回ろうと思っています」

 

「そうなんですね。京は初めてですか?」

 

「いえ、秀吉様に帰国のご報告をするため、5年前に一度来ています。ただ、その時には謁見の準備に追われて、京でゆっくりできませんでした」

 

「それなら、私がご案内しましょうか? 父の用事は後に回せるので」

 

「ありがたいですが、いいんですか?」

 

「もちろん、だって楽しいから。それに南蛮のことを伺いたいし」

 

 彼女の笑顔は、帰国後に見たことがないほど眩しかった。その笑顔は純粋で、何もかもを受け入れてくれるような温かさがあった。その瞬間、心の中に何かが溶けていくような感覚に包まれた。

 

 たまに伏見の街を案内して貰いながら、私は彼女に使節として過ごした8年のことを話して聞かせた。彼女は航海や異国で過ごした話にとても興味を持った。

 たまは、ポルトガルやスペインで会った女性のように、親しみやすく明るい女性だった。そして、言葉にできないほど美しい女性だった。鮮やかな桜の花びらが舞い降りる中、彼女の隣を歩きながら、私は何か不思議な縁を感じた。

 

 この出会いは、きっと私の京での日々を楽しく、素晴らしい方向に導いてくれる。主よ、感謝いたします。

 

 アーメン

  

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