雪混じりの雨が降っている。終電二本前の下り電車が停車していた。いつものように混み合っていて、ドア付近では雨を避ける術もない。文庫本が開ければ、ここでは幸せな乗客と言える。彼らは互いに顔を背け、恋人同士よりも密接な姿勢を強いられていた。そして、彼らの多くがバケツに詰められた雑魚のように生気のない目をしていた。


 凍えるような音で発車ベルが鳴った。ドアが閉まり、電車は駅を後にする。その車窓は白く曇っていた。それがゆっくりと大きな掌で払われた。濡れた車窓の内側には沿線の明かりを見詰める憂えた瞳があった。それは一見してスポーツマンと分かる焼け方をした男性で、彼の心はスーツを脱ぎ捨て白銀の世界へと飛んでいた。


 彼は右肩をドアに凭らせながら若い女性と背中合わせになっている。他人同士の二人の体はこうした状況以外では考えられないほど密着していた。そして彼女の方も慣れているらしく気に留めている様子はなかった。


 彼女は座席脇の支柱越しに運良く席に在り付けた友人と話をしていた。その口調からすると二人はアルコールが少し入っているようだった。話の内容は表情の変化の激しい友人の仕事上の愚痴が中心で、しっかりしている彼女が聞き役と慰め役を務めていた。二人の会話の端々は彼の耳にも届いていたが彼の意識には触れなかった。


「それは酷い。信じられない。厳しいと言うより、どう考えても意地悪だよ」
 と、彼女が強い調子で言った。


 その友人は同意を勝ち得て満足そうに頷いた。そして二人はトーンを落して会話を続けた。


 意地悪。


 その一言が不意に彼の耳に止まった。彼は心の中で繰り返した。それは彼にオフィスでの一場面を思い出させた。
 
 彼はミーティングブースで部下の女性が提出した資料を確認していた。彼女は彼の様子を伺いながら時間を気にしている。


「片倉、データの集計方法が違ってるよ」
 と、彼は言った。


「そんな筈はないと思いますけど」
 彼女は資料を覗き込んだ。


「ほら、この部分だよ。本当はこうならなきゃいけないんだ」
 彼は他の資料を照らし合わせて、誤りをペンで差し示した。


「計算式を修正して集計をやり直さないとだめだな」
 彼は軽い調子で結論を言った。


「そんな・・」
 彼女は深刻な顔に変わった。


「パソコンに集計前のデ-タは残してあるんだろう」
 彼は彼女の表情から状況を読み取った。


「参ったな。フロッピーディスクにもバックアップはしてないの」
「してません」
「どうして」
「もう必要がないと思ったんです」
「結果が正しかったら必要がなかったよ。だけど、せめて俺の確認が済むまでは保管して置く必要があったんじゃないか」


 終業の鐘が鳴り始めた。彼はそれが鳴り終えるまで彼女の答えを待った。


「それは町田さんの問題だと思います」
 彼女の態度は強固になった。


「俺の問題って」
「私は町田さんの言われた通りに集計しました。自分の指示が間違っていたのに私の所為にしないで下さい」
 彼女は不満そうだった。


「本当に俺の言った通りだと思うか」
 彼は冷静に受け答えた。


「そう思いますけど」
「俺が説明をした時に集計方法を書いたメモを渡したよね。それは確認したよね」
「あのメモですか。大した事が書いてないと思って捨ててしまいました」
「捨てた・・。じゃあ、どうやってこのデ-タを出したんだよ」
「書いてある内容は理解していましたから」
「理解をしていないから間違えたんだろう。此処に渡したメモのコピーがあるから確かめて見ろよ」
 彼はバインダーからコピーを取り出すと彼女に手渡した。


「何が書いてある」
 彼は呆れ顔で頬杖を突き、彼女はコピーを見詰めたまま何も答えられなかった。


「データの入力からとなると徹夜か休出でもしないとだめだな」
「あの、私もですか」
 彼女の口調は随分弱々しくなった。


「当たり前だろう。これは月曜日の会議でお前自身が報告する資料だろう。間違ったままじゃ済まないだろう」
「分かってます」
「俺も他に纏めなきゃならない資料があるから今日は残業なんだ。今日中に直すんだったら後で手伝ってやるよ」
「今日はもう帰りたいんですけど」
「じゃあ、どうするつもりだよ」
 彼女は再び何も答えられなくなった。


「俺は明日からスキー部の合宿なんだ。だから、悪いけど休出には付き合えないぞ。それでも良ければ好きにしていいよ」
 彼がそう言うと彼女は暫く考えていた。


「今日は帰ります」
 と、彼女が言った。


「そうか。だけど月曜日までに資料を直さないと自分が困るんだからな」
「分かってます。そんな事」
 彼女は反抗的だった。


「子供みたいだな」
「随分意地悪ですね」
 彼女は冷たくそう言って席を立った。


「意地悪か・・」
 彼はそう繰り返した。
 
 彼女達は相変らず話を続けている。彼は目を閉じて冷たく濡れた窓に額を押し付けた。額から頬に雫が伝わった。彼にはそれが心地良く思えた。外は雨から雪に変わっていた。


 電車が次の駅に着いた。


「じゃあ、この続きはまた今度」
「ありがとう。由美」
 彼女は向きを変えた。

 

 ドアが開き、彼はホームに押し出された。そして彼女が彼の前を過ぎた。背中合わせだった二人はお互いに記憶の片隅にさえ残らない関係に過ぎなかった。


 密閉された空間から開放された人々は休む事もなく我先にと改札を目指した。彼は溜息を吐いて再び電車に乗り込んだ。車内には僅かな余裕ができていた。


 彼の足元に破れ掛かった夕刊が汚ならしく散らばっている。彼は落ち着かないようだったがそれを見過ごしていた。そして車内アナウンスが駅への到着を告げると、彼は手を伸ばしてそれを拾い上げた。その一面には、大手の銀行で内部告発により不正融資が発覚し、女性の課長が逮捕されたと言う記事が大きく載っていた。彼はそれが自分の友人の勤める銀行である事に気付いたが、彼にはそれ以上の興味が湧かなかった。


 電車が駅に着き、彼は片手で網棚から鞄を取ると電車から降りた。そして大きく口を開けたゴミ箱にその夕刊を投げ入れると流れに任せて歩き出した。
 
 彼の部屋だった。それは窓から公園を見下ろせるワンルームマンションで男所帯にしては綺麗に片付いていたが、玄関にはスキーの板が所狭しと並び、部屋の雰囲気もスキー一色で女性の気配など微塵もなかった。そしてエアコンがタイマーで予約されていたらしく適度な暖かさが彼を迎え入れた。


 彼は濡れた鞄を机上のパソコンの横に立て掛け、リモコンを手に取りテレビの電源を入れた。それからコートと上着をベットの上に脱ぎ捨てて、無造作にネクタイを外しながらキッチンに向かった。そして冷蔵庫の扉を開け、彼の帰宅時の一連の作業が終わった。冷蔵庫は缶ビールが半分近くを占めていた。彼はいつものようにそれを手に取った。


 彼が缶ビールを飲みながら手際良く荷造りをしている。彼にはスキーに出掛ける支度も毎週末のように繰り返されるルーチンワークの一つになっていた。そのためか粗方の物はスキーバックに初めから入っていた。しかし時間が押しているらしく付けたテレビに目を向ける余裕もないようだった。そのテレビの音に被さるように電話が鳴り始めた。


「はい。町田です」
「もしもし、町田君」
「えっ、はい」
「あっ、橋本だけど」
「なんだ。橋本か」
「うん」
 電話の相手は、彼が電車で見た夕刊に載っていた銀行に務める彼の大学時代からの友人だった。


「だけど丁度良かった。後で俺の方から電話しようと思っていたんだ。来週のスキー、お前が幹事なのにちっとも連絡がないからさ。ちょっと怠慢だぞ」
「ごめん。矢部にも同じ事を言われたよ。あいつ、さっきまで家に来ていたんだ」
 その声は弱々しく彼の聞き慣れた橋本の口調ではなかっていた。
「何か調子が悪いの」
「うん。・・分かる」
「ああ。感じが全然違うもの。どうしたの」
「実は、心臓を壊しちゃったんだ」
「えっ、心臓を」
「うん」
 彼の知る橋本は心臓を壊すようなやわな男ではなかった。
「どんな感じなの」
「時々胸が苦しくて息もできなくなるんだ。だから会社も暫く休んでいるんだ」
「そうだったのか。大変だな」
「でも、来週のスキーには行くよ」
「えっ、大丈夫かよ」
「医者にも適度な運動は勧められているし、最近は落ち着いているんだ。だから多分大丈夫だよ」
「適度な運動だって。ちょっと微妙だな」
「そうだね」
 彼は時間を気にして壁時計に目を向けた。
「それで、来週のスキーはどうなるの」
「ああ。最終的な集合を土曜の朝十時に駒沢球技場にしようと思うんだけど」
「えっ、駒沢球技場」
「そう」
「なんで」
「矢部のわがままなんだ。午前中はサッカーの試合があるから、試合が終わる頃に迎えに来てくれって言うんだ」
「えっ、サッカーの試合。サッカーしてからスキーに行くの」
「何か地区のリーグ戦で優勝を争っているから、どうしても休めないんだって」
「ふーん。全く、相変らずだな」
「それで悪いけど、車を出して貰えないかな」
「ああ、構わないよ。結局、メンバーはどうなったの」
「いつもと同じ」
「聞くまでもなかったか。じゃあ、古淵は俺が拾って行こうか。どうせ近いから」
「そうだね」
「橋本はどうする」
「それなら古淵の家に車を置かせて貰うから俺も一緒に拾ってくれないかな」
 いつもの声に戻っていた。
「ああ、いいよ」
「町田君は今週の連休はどうするの」
「ああ。明日から会社のスキー部の合宿で車山に行くんだ」
「そうなんだ。いいな」
「そう言えば、新聞の見出しで見たんだけど、お前の所の銀行で不正融資が発覚したみたいだな」
「えっ、それって本当なの」
「ああ。お前、知らなかったのか」
「病院に行っていたからまだ今日のニュースは知らないんだ」
「でも内部告発されるなんて酷い女なんだろうな。確か名前は相原とか言ったかな」
「そんな・・・」
 その時、町田の部屋のインターホンが鳴った。そして彼を呼ぶ若い男性の声がした。
「あっ、ごめん、これから用事があって直ぐに出掛けるんだ」
「えっ、ああ・・」
「じゃあ、お大事に」
 町田はそう言って電話を切った。そして彼は玄関に向かった。
「よお、相変らず時間に正確だな」
 彼はドアを開けてそう言った。
「町田さん、ひどいっすよ。また僕が一人で運転するんですか」
 と、その男性が嘆いた。彼の手にはしっかりと缶ビールが握られていた。
 

 橋本は暫く立ち尽くしていた。そして彼の心を掻きむしるように電話が鳴り出した。
 

 霧ヶ峰の空は青く澄み切っている。下界は例年にない雪の多さで白樺湖を中心に白銀の世界が広がっていた。そして車山のゲレンデはカラフルなスキーヤーで賑わっていた。


 コブの連続する急斜面に大勢の者が苦戦をしている。オレンジ色のお揃いのウェアを着た三人が第三リフトから降りて来た。彼等は壁の手前で一旦停止し、コースを確認して一斉に滑り始めた。彼等は小気味良いリズムを刻みながら、ウェーデルンで直線的にコブ斜面を攻めて行く。一人がコースを塞がれてタイミングを崩した。彼はバランスを失って頭から転倒した。他の二人が難なく急斜面を滑り降りて行く中で、彼の外れた板は競争を続けているかのように本人を残したまま下まで流れて行った。


 展望レストランの窓際の席だった。彼等はオレンジのウェアを椅子の背に掛け、遅目の昼食を取っている。テーブルの上にはスキー場らしからぬ、本格的な料理が並んでいた。


 町田はその中の一人だった。


「だけど町田君もまだまだ甘いよね」
 そう言ったのは町田の向かいに座っている女性だった。


「うるさいな。コースを塞がれたんだから仕方ないだろ」
 町田が言い返した。


「でも、其処でリカバリーができなきゃね。同じウェアで滑ってるのが恥ずかしいよね、中山君」
 彼女は隣の男性に同意を求めた。


「そうっすね」
 と、彼は笑顔でそう応えた。


「悪かったな」
 町田が睨んだ。
「でも、まあ、仕方ないっすよ。町田さんはモーグルに転向してまだ間もないから」
 彼は調子を合わせた。


「中山君はどっちの味方なのよ」
 彼女は彼の肩を押した。


「勘弁して下さいよ」
 彼は困った顔で首を傾けた。


「同じモーグル班なんっすから、町田さんも大口さんも食事の時ぐらいは喧嘩しないで仲良くやりましょうよ」
 彼はそう続けた。


「別に喧嘩してる訳じゃないよ」
 町田がそう呟いた。


 窓からは八子ケ峰の北斜面に白樺湖ロイヤルヒルスキー場が細長く見える。彼等は景色を見ながら食後のコーヒーを飲んでいた。町田は考え事をしているようだった。彼は時計を気にした。


「俺、ちょっと電話してくる」
 町田はそう言って席を立った。


 町田は公衆電話の前に来ると、財布から二枚のテレホンカードを取り出した。彼は度数を確認して一枚を電話の上に置き、もう一枚で電話を掛けた。
 呼出し音が鳴り続けるが誰も出なかった。彼が受話器を置こうとした時、男性の声で応答があった。


「すみません、四課の町田ですけど、片倉は出勤してませんか」
「片倉さんですか。今日は見てないですけど」
「そうですか。分かりました。どうも失礼しました」
 彼は受話器を置いた。


「あの馬鹿、何をやってるんだ」
 と、彼は小さく呟いた。


 町田が席に戻って来る。
「随分と早い電話ね」
 大口が声を掛けた。


「会社に電話したんだよ」
 と、町田は座りながら答えた。


「なんだ。てっきり、新しい恋人にでも電話をしたのかと思った」
 彼女は不服そうだった。


「えっ、町田さん、新しい恋人ができたんっすか」
 中山は驚いていた。


「できるかよ」
 町田は吐き捨てた。


「そうよね。できる訳ないわよね」
 大口が頷いた。


「失礼な奴だな。お前だって、高望みばっかりしているから、いい歳して未だに相手がいない癖に」
 町田が攻撃を仕掛けた。


「失礼なのはどっちよ。そう言う性格だから、折角できた彼女に愛想を尽かされるのよ。その性格を直さない限り、もう二度と彼女はできないわね」
 大口は間を空けずに反撃を開始した。


「馬鹿野郎。俺はモテるんだよ」
「ふーん、知らなかったな。でも、初めの内は見掛けで騙せても、また長続きはしないと思うな」
「なんでだよ」
「だって、仮に俺はスキーが上手いんだ、とか言ってミーハーな娘をスキーに誘えたとしても、優しく女の子に教える所か一人でガンガン滑っちゃって一回で嫌われるもの。その性格に付いて行ける女性なんて地球上に二人と存在しないんじゃない」
「ああそうですか。御忠告どうも」
「いい加減にして下さいよ」
 啀み合う二人の間に中山が入る。

 
 都会の雑踏が北風に震えている。慌ただしいビルの狭間に味気ない灰色の空から柔らかな日差しが降り注いで来る。此処には機械で刻まれた時間が流れている。
 連休明けのオフィスは心なし忙しそうだった。町田が片倉と立ったまま言い合いをしている。多くの者の注意が二人に向けられた。


「確かにお前が会議の席で謝れば済む問題かも知れない。だけど任されている仕事が自分の所為で遅れたんだから、自分で責任を果たすべきだったんじゃないのか」
 彼はゆっくりとした口調でそう言った。彼女はそれを聞きながら俯いた。


「そう言われても・・。それに私が担当している仕事は難し過ぎます。私には元々無理なんです」
「片倉、難し過ぎるなんて、やるだけの事をやってから言えよ」
「やるだけの事をやっても、結局は同じなんですよ」
「何が同じなんだよ」
「私はだめなんです」
 彼女は弱音を吐いた。


「そんな事を言うなんて、最近のお前はちょっと可笑しいぞ」
 と、彼は諭すように言った。


「私は町田さんみたいに優秀ではないんです」
「優秀じゃないだって、ふざけるな」
 彼がそう怒鳴ると、彼女は泣き出しそうな顔で睨み返した。


「私の気持ちも分からない癖に、偉そうな事を言わないで下さい」
「気持ちがどうこうじゃないだろう。そんな言い訳は沢山だ。午後からの会議はお前は出席しなくていい」
 彼は資料を机の上に叩き突けた。

 
 ラウンジ風の社員食堂は賑やかだった。仕事に追われたらしく、町田が遅れて一人で入って来た。町田は空いている席を探し、テーブルの上にトレイを置いた。彼の耳に聞き馴れた話し声が聞こえて来た。


「そうなのよね。私も前は結構いい感じだなって思っていたのよ。だけど、真面目と言うか肩苦しい性格でしょ、今日のあの怒り方なんて完全に時代錯誤しててるよね」
「本当よ。自分だってスキーに行って遊んでいた癖に偉そうに威張って、馬鹿みたいに怒鳴っちゃってさぁ」
 町田は気に留めず食事を続け、彼女達も町田に気付く様子もなく好き放題な話を続けていた。


「片倉さんも、あんな時代遅れな奴と一緒に仕事するんじゃ大変だよね」
「本当、本当。あんな事を言われたら、私だったら直ぐに会社を辞めちゃうな」
「片倉さん、よく我慢できるね」
「我慢か。でも、もう疲れちゃったな」
 その片倉の声に町田の箸が止まった。

 
 週末の定時後は残る者も少なく、オフィスの殆どの照明が落されている。薄暗いオフィスで町田が一人で残業をしていた。電話が鳴り出した。橋本からだった。
「仕事中にごめんね。家に電話したら、まだ会社だって言うから」
 橋本の声は以前に増して元気がなかった。


「別に構わないよ。どうしたの」
「俺、明日のスキー行けないんだ」
「えっ、そんなに調子が悪いの」
「うん。それに明日、心臓の精密検査を受けるんだ」
「精密検査じゃ仕方がないな」
「もう俺はダメかも知れないよ」
「ダメって何がだよ」
「色々と疲れているんだ」
「お前らしくないぞ。しっかりしろよ」
「そうだね。町田君って今シーズンの滑走日数はどれぐらいなの」
 と、橋本が話題を変えて尋ねて来た。


「先週の車山で丁度十日かな」
「そうか、十日か。俺なんか今シーズンは五日しか滑ってないよ。それも十二月に会社の連中と二回行っただけで、年が明けてからは一回も行ってないや」
「十日って言っても、滑走距離は大した事ないよ。半分はお遊びスキーだから」
「でも、スキー部で合宿してるんだから凄いよ。今年からモーグルをやっているんでしょ」
「ああ。でも、まだコブには手を焼いているよ。エアなんか全然だめなんだ。ジャンプする時のタイミングがどうも掴めないんだ」
「もう俺なんか追い抜かれちゃっただろうな」
「そんな事ないよ」
「皆と滑るの、楽しみにしてたんだけどな」
 と、橋本が寂しそうに言った。
「直ぐに良くなって、また一緒に滑れるよ」
 町田はそう励ました。

 
 終電前の電車だった。車内は比較的は空いている。時々酔っ払いの声が聞こえるだけで静かな空間だった。座っている者も立っている者も、殆どが目を閉じている。町田も隅の方の席に座り、考え事をしながら軽く目を閉じていた。


 彼は会社で橋本との話が終えた後、明日の確認をするために矢部に電話をした。彼はその電話で、橋本の病気は精神的なものが原因だと教えられた。彼の知っている橋本は、愛想が良いとは言えないが行動力のある芯の強い男で、精神的な脆さなど感じた事がなかった。彼は電車に揺れながら、橋本に何が起きたのかを考えていた。

 
 穏やかな冬の朝だった。駒沢球技場の観戦席に町田が二人で入って来た。グランドは試合の最中で、観戦席から応援や野次が飛び交っている。
「町田、古淵。こっち、こっち」
 と大きな声が聞こえて来た。二人が声の方を向くと、応援している中の一人が立ち上がり大きく手を振っている。二人は相手が矢部だと分かると大きく手を振り返した。


「よお、だけど少し早いんじゃないか」
 矢部がそう言った。


「ああ。折角だからお前の応援でもしようかと思って早目に来たんだ」
 と、町田が応えた。


「でも、矢部は試合に出てないの」
 と、古淵が尋ねた。


「前半は出ていたけど、もう足が動かなくって、後半は若い奴に交代したよ」
 矢部はそう答えた。彼の隣にいた女性が小さく笑った。町田が彼女に気が付いた。


「矢部、紹介しろよ」
「ああ。彼女は鴨居裕美。それで、この二人が町田と古淵」
 と、矢部は素っ気なく紹介した。


「初めまして。お二人の事はいつもビデオで拝見しています」
 と、彼女が微笑みながら言った。


「えっ、そうか、矢部はAVオタクだからいつもスキーでビデオ撮影をするからな」
「言われて見ればお互いビデオで会ってるから初対面じゃないね」
 と、古淵と町田が続けて言った。


 試合の残り時間はあと僅かだった。彼等は一緒になって応援したが、矢部のチームは一点が奪えずに惜敗した。矢部が落胆の声を上げた。

 
 駐車場にワゴン車が停められていて、矢部が後部から大きな荷物を積み込んでいる。そして裕美は矢部のスキー板を車のキャリアに付けようと苦戦していた。町田が見兼ねて彼女に手を貸した。


「あっ、すみません」
「どういたしまして」
「でも、橋本さんが行けなくなって、残念ですね」
 と、裕美が言った。
「うん、本当だよ。鴨居さんが代りに行ければいいのにね」
 と冗談混じりに町田が返した。
「そうですね。もう少し早く分かっていたら、都合を付けて一緒に行けたんですけどね」
 と、彼女が笑顔で応えた。


「でも、矢部が三月末に計画してる八方には一緒に行けるんでしょ」
 と、古淵が話に加わった。


「ええ。友達と二人で参加しようと思っています。でも皆さん凄く上手いから少し心配なんですよ。噂では容赦なく滑るって聞いているから」
 彼女は明るい口調でそう答えた。

 

 

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