第2章:深まる秋の相模路

2.4 退魔の弓と相模川の船渡


 会合は解散しましたが、道澄という方の周りには、大勢が集まって挨拶をしたり、お共の方から依頼の書付を受け取っていました。私は帰られる方に挨拶をしているアキとアイと一緒に広間に残っていました。

 

「退治が難しいなら、どうしてみんなで逃げて来ないんだろう?」

 私はふと疑問に思ったことを口にしました。

 

「そんな簡単じゃないよ。みんなこっちに来られても食べ物が足りないよ。こっちだって余裕がある訳じゃないし。田畑を放り出して逃げてしまうと収穫もできないから、冬には食べ物がなくなって今度は飢えで苦しむことになる」

 アキは厳しい顔をしています。

 

「それに餓鬼って人間以上に食欲が旺盛なんでしょ?」

 

「そうみたいね。餓鬼は斬っても倒れないし、質が悪いよね」

 アキはアイに答えました。 

 

「斬っても倒れないって、やっぱりゾンビなんだ」

 私はそう言いました。

 

「ゾンビ? お姉ちゃん、コノハさんってどこの誰なの?お姉ちゃんにとても似ているけど」

 アイがアキに訊ねました。

 

「彼岸沢の鏡の泉に映った手を掴んで、引っ張ったら泉から出て来たの。未来を映す鏡の泉から出て来たんだから、きっとコノハって、私の子孫よ」

 アキは得意気で、アイは怪訝な顔をしていました。

 

「本当に未来から来たなら、この先のことを知っているんですか?」

 アイが私に訊ねました。

 

 

「まぁ、大体は知っているけれど」

 

「えっ! 知ってるの? じゃあ、どうやって悪霊や餓鬼を退治するの? ねえ、どうするの?」

 アキは目をキラキラさせています。

 

「えっ、戦いの後に悪霊や餓鬼が出たことは、言い伝えが残っていて知っているけど、どうやって浄霊や退治したかまでは知らないんだ。ごめん」

 

「なんだ。未来から来たのなら答えを知っているのかと思った」

 アキは不服そうです。

 

「でも、多くの戦死者の供養のために合戦の碑が立てられ、首塚と胴塚が造られたことは知っているよ」

 

 私たちの会話を聞いていたらしく道澄という方が近付いて来ました。

 

「はじめまして。よろしいですか?」

 

「はい。全然構いません。何でしょうか、道澄様」

 アキは緊張して直立不動になりました。

 

「先ほど合戦の碑や首塚と話されていましたが、幾千人もの死者が出たので、残念ながら埋葬すら終わっていません。どういうことか少し教えて貰えませんか?」

 彼はとても穏やかに訊ねて来ました。

 

「この子は未来から来たんです。ほら、あれを見せなよ」

 アキは私の腕を突っついてスマホを出せと催促しました。

 

「未来だって?」

 彼は私の顔をじっと見て来ました。

 

「私はコノハです。以前、どこかでお会いしましたか?」

 私は彼の顔に覚えがあります。

 

 

「いいえ。はじめてお会いしましたよ。コノハさん」

 

「すみません。変なことを言いました。信じられないと思いますが、照手姫の伝承がある鏡の泉を抜けて未来から来ました」

 私がスマホを取り出して電源を入れると、彼は不思議そうに見ていました。

 

「照手姫と小栗判官の伝説は私も知っていますが、にわかには信じられない。が、これは確かに今の世の物ではない」

 

「そうだ。これを見てください」

 私はスマホを操作してフォトアルバムを開き、部室で撮影したゾンビ動画の1シーンの画像を見せました。

 

 道澄という方もアキもアイも画面を見て驚いています。

 

「これは見たものをこうして記録することができるんです。多分これを記録したのは、今ここにいる私です」

 

「それでは、今いるキミが記録して、未来のキミがそれを見て、この時代に来たというのかい?」

 

「そうとしか思えません。本当に夢でも見ているようですが…」

 私はそう言いながら何かに気付きました。そして思い出しました。

 

 道澄という方の顔は、私が河口湖で見た夢の中で、鬼を退治して私を助け出してくれた人の顔です。あの時は夢だと思いもしませんでしたが、今はこの不思議な出来事こそが現実とは思えません。

 

 

 彼もまた同じように夢を見ていて、今回は自覚がないのだろうか?私はそう思いました。そして、これが明晰夢なら私はどんなことができるのか試してみたいと思いました。

 

『私は退魔の弓で悪霊と餓鬼を浄霊できる』

 

 私は鎌倉の鶴岡八幡宮の節分祭で見た退魔の弓をイメージしました。すると左手に綺麗な弓が握られていました。

 私は矢をつがえずに右手で弓を引き、そのまま弦を放ちました。周囲に『キャン!』という高い弦音が響き渡りました。

 

「無から具現された弓に、鳴弦の儀の弦打の音!」

 彼は驚いたように言いました。周囲の人たちも驚いています。

 

「道澄さん、私も一緒に相模川を渡ります」

 私は彼を身近な存在に感じ、力強く伝えました。

 

「コノハ、弓を出したのは凄いけど、さん付けはないでしょ。道澄様でしょ」

 アキが私を睨みました。

 

「いえ、さん付けで構いませんよ。修行中の身ですし、私は様付けで呼ばれるのが好きではないのです。コノハさん、この弓があれば餓鬼や悪霊を祓うことができます。是非お力をお貸し下さい」

 

「はい。私でお役に立てるのであれば」

 私は彼にそう答えました。

 

「ですが、ご自分の命さえ危ないのに、どうして縁のない地の民のために、ここまでされるのですか?貴族のご出身と伺いましたが」

 アキは彼に訊ねました。

 

 

「確かに私は近衛家の人間で、京にいれば出家した身でも苦労なく過ごすことができるでしょう。ですが、戦乱で多くの人が苦しんでいるのを知り、何かをせずにはいられなかったのです。修験者として死者を弔い、荒ぶる亡者を鎮めるのが私の務めです。上洛された輝虎殿との出会いで、私の人生は変わりました」

 

 私は彼の話を聞いて、『そんな人物がこの場に都合よくいるなど夢に違いない』と一層強く思いました。

 

「近衛家? それに輝虎って、義の武将として知らぬ者のない越後の上杉輝虎様と、お知り合いなのですか?」

 アイが驚いた声を上げました。

 

「ええ。ですが今は一介の修行僧です。輝虎殿とは上洛された際に歌会で知り合いました。義に生きる軍神のような方ですが、実は源氏物語などの恋愛物が好みなのですよ。私は越後に呼ばれ、しばらく滞在させて頂き、関東出兵に同道させて貰いました」

 

「そのような仲であれば、この年代なら越相同盟で、道澄さんが頼めば北条も悪霊や餓鬼の退治に協力してくれるのではないですか?」

 

「お詳しいですね。ですが同盟は名目だけで、今回の武田の侵攻で輝虎殿は越後から動きませんでした。逆に私と輝虎殿との仲を知る者は快く思わないかも知れません。それに餓鬼も悪霊も元々は北条の方々ですから」

 彼は意地悪く訊ねた私に静かに答えてくれました。

 

 

 私は歴史研究部の一員なので戦国時代の出来事を把握しているつもりでした。が、ごく一部を知っているだけで理解しているには程遠いと思いました。

 

 私たちが相模川を船で渡る頃にはもう夕暮れになっていました。私の時代には橋が架かっているのですが、この時代にはありません。そして上流にダムがないため川幅も広いです。

 

 船には、船頭さん以外に私と道澄さんとお共の男性、そしてアキと護衛が一人乗っています。アキの同行は周囲から危険だからと引き留められたのですが、どうしても一緒に行って手伝いたいと言い張り、護衛を付けて許可されました。

 ただ護衛と言っても二郎という名前の子どもです。彼は兄弟でアキの家に使用人として住み込み、武士になるために合間に剣術の修行をしているそうです。

 

 田名の久所にある相模川の船渡場まではアイも付いて来てくれました。

 

「気を付けてね! ご飯作って帰りを待っているから」

 アイが大きく手を振っています。

 

「分かった。待っててねー!」

 アキがそう応え、私も左手に弓を持ち、右手を大きく振り返しました。

  

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