ふじてんを後にした私たちは、道の駅かつやまに車を停め、小海公園を散歩しながら河口湖を眺めることにしました。
「ねえ、知っていますか? この近くのホテルに谷崎潤一郎が滞在して、細雪を書いたんですよ」
少女は私に自慢気に訊ねて来ました。
しかし残念ながら、これは私の夢の中なので私は大抵のことを知っています。私は肯定しました。
「やっぱり知っていたんですね。でも、執筆した場所はここでも、小説の舞台は大阪なんですよね。それに娘さんと二人で滞在して別の場所が舞台の小説を書くなんて、何か不思議ですね」
少女はそう続けました。
私がその話を知っているのは、たまたま宿泊したホテルが谷崎潤一郎やジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻が滞在したことがあるホテルで、文学碑やサインが記憶に残っているからです。
私たちは道路を渡り、芝生の拡がる小海公園に来ました。芝生の先は河口湖です。
「風が気持ちいいですね」
少女はそう言いました。
「そうだね。この風ならセイリングにも丁度良い風だ」
私でない私が応えました。
「セイリング?」
「セイリングと言っても、ウインドサーフィンのことだけどね。隣の西湖でも何度かしたよ。最近はご無沙汰だけどね」
「そうなんですか。気持ち良さそうですね」
「ああ。夏には最高だね」
少女の笑顔を見ながら私は答えました。
私たちは風を受けながら小海公園から湖を眺めていました。
「ウインドサーフィンをしている所、見てみたいなぁ」
と少女が言いました。
すると、都合良く湖畔にはボートやウインドサーフィンが並んでいます。
「じゃあ、少しだけ見せようか」
河口湖にはウインドサーフィンができる場所はなく、西湖か本栖湖に行かなければならない筈ですが、夢の中なので気にしません。私はボードの長さが3mぐらいのウインドサーフィンを借りました。
靴を脱ぎ、シャツを脱いで上半身は裸になり、腰には短パンの上からハーネスを巻きました。そしてボードを湖に浮かべてマストを立て、振り返ります。
私は少女の笑顔を確認してからセイルに風を入れ、ボードの上に乗りました。そのボードは風を受けて湖面を切り裂きながらゆっくり進みます。
ボードの上に立った状態で沖に出た後、良い風を感じ、進行方向を風上にゆっくりと変えます。身体を倒しながらセイルを引き込み、段々とスピードが上がります。ボードは水面から浮き上がり、ウインドサーフィンは湖面を走り出しました。
『少女は見てくれているだろうか?』
私がそう思って湖畔の方に目を向けると、笑顔ではなく、複雑な表情をした少女が立っていました。
『あれ?どうして?』
私は余計なことに気を取られて風上に上り過ぎ、裏風が入ったセイルごと水面に叩き付けられました。
河口湖の水深は西湖や本栖湖よりは浅いと言っても足は着きません。そもそもここは河口湖ではないのかも知れません。私は足をバタバタさせながら浮かんでいるウインドサーフィンのボードに腕を伸ばしてしがみ付こうとしました。
が、体重を預けようとするとボードが沈んでしまいます。ボードはポリウレタンや発泡スチロールの芯材を樹脂でコーディングしたものですが、3mもあるボードであれば、大人が乗っても浮かんでいるだけの浮力はあります。
『このボード、劣化している。まるで白い泥だ』
ボードは頼りなく浮かんでいる程度で、掴まろうとした部分のコーディングが暑い日差しでドロドロになって手に絡み、そこから芯材が抉り出て来て、まるで泡が溢れ出したクリームソーダのように白い粉が水面に拡がって行きます。
見る見る内にマストとセイルと共にボードは崩れながら沈んで行きました。
『こんな所で溺れる訳には行かない。何とか岸まで泳がないと』
私はそう思いました。
が、スピードを出してウインドサーフィンを走らせたので、湖の中央付近まで来ていて、岸まではかなりの距離があります。遥か遠くに思えました。
それから私は背を日差しで焼きながら必死になって岸まで泳ぎました。とても長い時間に思えましたが、救助には誰も来てくれませんでした。
這いつくばって岸まで来ると、心配そうにしている少女の姿がありました。
少女が話したことはカチカチ山の狸と兎のことでした。
カチカチ山の舞台は、河口湖の東岸にある天上山と言われています。少女の家は河口湖近くの里にあり、兎を恨む狸の祟りがあると伝わっているそうです。
少女が次々に起る災難を古くからある神社の宮司に相談した所、狸の祟りに違いないと言われたそうです。
「その宮司さんは祟りを祓えなかったのかい?」
「お祓いはしてくれたんですけど、恨みが強いらしくて」
「そうか。狸の祟りか、何とかならないかなぁ」
私がそう言うと車の前方から何かの音が聞こえ出しました。金属が擦れたような小さな音でした。
「何かカチカチと聞こえませんか?」
少女も音に気付きました。
「何だろうね? カチカチ山のカチカチ鳥がいる訳でもないだろうし」
私は軽い冗談を言いましたがスルーされました。
「あっ! 今度は煙が……」
少女が驚きの声を上げました。
カチカチの次は車のボンネットから煙が出始め、ボーボーとした大量の白煙で視界を塞がれてしまいました。
私は車を道端に停めました。ボンネットを開けて確認すると、どうもエンジンが壊れたようです。
「もう車はダメだ。キミの家までは遠いのかい?」
私は少女に訊ねました。
「ここからなら歩いても直ぐです」
「それは良かった」
私たちは歩いて少女の家に向かいました。