私は背中の痛みを堪え、助手席に少女を乗せて湖沿いを車で走っていました。
「さっきウインドサーフィンで湖に落ちる前に、遠くから何か複雑な顔をしているように見えたんだけど、何かあった?」
私は訊ねました。
「あっ、遠くからだったのによく分かりましたね」
「不思議だけど、遠くからでもキミの顔がよく見えたんだ」
不思議と言えばウインドサーフィンが水飴で固めた泥船のように沈んでしまったことの方が不思議でした。ただ、岸に着いた時には既に手漕ぎボートやウインドサーフィンのレンタル店は片付けられていて、何もなく、誰もいませんでした。
「実は、あなたに申し訳ないと思っていたのです」
少女は湖で見た顔をしています。
「私に申し訳ないって、どういうこと?」
少女は暫く黙っていました。
「実は、私は祟りを受けていて、あなたを不幸にしてしまうんです」
少し間を置いた後の少女の答えは、私の想定外のものでした。
「祟り? 不幸になる?」
私は聞き返しました。
「さっきウインドサーフィンが沈んでしまったのも、きっと祟りのせいです」
「否、あれはきっと古いウインドサーフィンで劣化していたんだよ。あんな不良品を貸したままいなくなってしまったレンタル屋のせいではあっても、キミのせいではないよ」
私は安心させようと否定しました。
「そんな優しい言葉は言わないでください」
少女は泣きながら小さく呟きました。
「私が誰かを、もっと一緒にいたいなって思うと、その人はみんな不幸になるんです」
「一緒にいたいと思うと不幸になる?」
「そうなんです」
「それは考えようによっては光栄だけど、そんなことってあるのかい?」
「ええ。前にイイなって想った人は、一緒にいる内に段々と悪いことが起こるようになって、仕舞いにはハイキングをしている最中に背中の荷物が突然燃え出して大やけどをしてしまったんです」
「背中の荷物が燃えて大やけど?」
「そうです。それからその人は気味悪がって連絡すらできなくなってしまいました」
「その祟りの心当たりはあるのかい?」
少女は少し考えてから口を開きました。
「実は私の住んでいる所には古い言い伝えがあって」
と少女は話し出しました。
少女が話したのは、カチカチ山の狸と兎のことでした。
オスの狸は他のメスの狸には目もくれず、真っ白なメスの兎に恋をしていました。しかし、メスの兎には相手にされません。その兎には狸が醜く見えたようで、酷く狸のことを嫌っていました。
ある日、お腹が空いて里に下りて来た狸は畑の作物を食べていました。すると罠に掛かって捕まってしまい、縛られておじいさんの家に連れて行かれます。狸は殺されて鍋の具にされそうになりますが、料理の支度をしているおばあさんの隙を見て暴れ、反対におばあさんを殺して逃げ出します。
山に戻った狸はその武勇伝を得意気に話して回ります。他の狸たちは人間を化かして逃げ延びたことに感心しますが、その狸が好意を寄せている兎は違いました。
ただでさえ動物は人間が狩りをする対象なのだから、狸がおばあさんを殺したことで、逆に大勢の人間が山の動物に仕返しに来るに違いない。そう思った兎はおばあさんを失って悲しんでいるおじいさんの所に行き、狸の成敗を自分がすると約束します。
それから兎は策を練り、狸を柴刈りに誘い出します。兎のことが大好きな狸は大喜びです。
二匹が山で柴刈りをした帰り、兎は狸が背負った柴に火打石で火を付けて大やけどを負わせました。更にその傷に薬だと言って辛子味噌を塗り、痛みのあまり狸は気絶してしまいます。それでも狸は一命を取り留めました。
数日後、狸が回復すると兎は狸を湖での猟に誘い、兎が用意した別々の船に乗りました。沖に出ると狸が乗った方の船だけが沈み出します。狸は泥船に乗せられ、船が溶けて狸は湖に落ちてしまいます。それを木の船に乗っていた兎は助けようとせず、溺れて沈もうとしている狸を黙って見ていました。助けを求めて狸は兎を見ます。兎は助けてくれません。
「惚れたが悪いか!」
全てを悟った狸は兎にそう言って湖に沈んで行きました。
少女が話したことはカチカチ山の狸と兎のことでした。
カチカチ山の舞台は、河口湖の東岸にある天上山と言われています。少女の家は河口湖近くの里にあり、兎を恨む狸の祟りがあると伝わっているそうです。
少女が次々に起る災難を古くからある神社の宮司に相談した所、狸の祟りに違いないと言われたそうです。
「その宮司さんは祟りを祓えなかったのかい?」
「お祓いはしてくれたんですけど、恨みが強いらしくて」
「そうか。狸の祟りか、何とかならないかなぁ」
私がそう言うと車の前方から何かの音が聞こえ出しました。金属が擦れたような小さな音でした。
「何かカチカチと聞こえませんか?」
少女も音に気付きました。
「何だろうね? カチカチ山のカチカチ鳥がいる訳でもないだろうし」
私は軽い冗談を言いましたがスルーされました。
「あっ! 今度は煙が……」
少女が驚きの声を上げました。
カチカチの次は車のボンネットから煙が出始め、ボーボーとした大量の白煙で視界を塞がれてしまいました。
私は車を道端に停めました。ボンネットを開けて確認すると、どうもエンジンが壊れたようです。
「もう車はダメだ。キミの家までは遠いのかい?」
私は少女に訊ねました。
「ここからなら歩いても直ぐです」
「それは良かった」
私たちは歩いて少女の家に向かいました。