冷蔵庫のような振動音が続いている。ひんやりとした空気が何処と言わず流れ、まるで冷蔵庫の中にいるような気にさえなった。ぼくは、ロサンゼルスに向かうジェット機の主翼近くの座席にいた。
周波数が一定だからまだ騒音には感じないが、決して馴染めるような類の音ではなかった。ぼくは僅かな光の中で読んでいた文庫本を膝の上に放り出し、天井に向かって大きく伸びをした。
空気枕に頭を預けている隣の席の女性は幸せそうに熟睡していた。何かのツアーに参加している話し好きな女子大生だった。日本時間では真夜中だが、ぼくは全然寝付けなかった。日本に置いて来た筈の仕事のことを考えていた。考えても仕方のないことが次から次へと頭に浮かんだ。
この旅行には観光の目的などなかった。たまたま見掛けた格安のチラシに飛び付き、思い付いたまま仕事を放り出して旅行に出た。置かれている状況を考えると無責任なのは分かっていた。仕事が嫌になって逃げ出す訳でもなかった。
が、それに近かった。ただ、一人でどこかに行きたかった。
飛行機は、太平洋に顔を出そうとしている一日遅れの朝日に向かって飛んでいる。ブラインドは太平洋を朝日が照り付けて赤くなり始めた。そっと手を当ててみる。しかし熱くはない。幾ら陽射しが強くても窓の外は氷点下だ。
通り掛かった乗務員がぼくにオレンジジュースを渡してくれた。ぼくは一気にそれを飲み干した。憂鬱な時間だった。
思えば、この半年間はずっとこんな感じだった。また、考えたくもないことが頭を過ぎり始めた。
半年ほど前、ぼくはある女性と出会った。そこから歯車が狂い始めた。足掻けば足掻くほど回転は歪み、彼女の影を追い続けた。そして、その隙に大切な友を失った。悲劇を演じている自分には、誰かの力になれる余裕はなかった。
ぼくが彼女の存在を知ったのは彼女から来た一通の手紙からだった。
≪前略、赤木殿
お忙しいところ失礼致します。
私は先日の9日10日の教育でご一緒させて頂いた木原里美と申します。
一番前に座っていたんですけど、覚えていませんよね。
どうしても、お聞きしたいことがありましてお手紙しました。
突然で本当にごめんなさい。
教育の最終日の午後、赤木さんの机の上に切り貼りで作ったメッセージが置かれていたと思います。覚えてらっしゃいますか?
それを持ち帰って頂けなかった理由は、
①不愉快だったので無視した
②気付かなかった
のどちらなのでしょうか。
もし、①でなかったら、もう一度きちんとお渡ししたいのですが、五分だけでも会って頂けないでしょうか?
17日(金)の夕方からずっと大森駅の改札にいます。
お暇な時間がありましたら、いらして下さい。興味がなければ無視して下さっても構いませんので。≫
ぼくがこの手紙を受け取ったのは14日の朝だった。ぼくが出勤すると他の書類の一緒に机の上に置かれていた。それは社用の封筒で、差出人も事業所こそ違うが同じ会社の女性からだった。だから、初めは仕こと上の手紙だと思っていた。
何気なく封を切り、手紙を読んだ時、ぼくは何が書いてあるのか理解できなかった。一体何ことなのかと思った。
先週の教育で一緒だった女性。席は一番前。ぼくは一週間前に受けた教育の座席を思い浮かべ、一人一人の顔を思い出そうとした。
先週の教育はビジュアルデザインの教育だった。ぼくはメーカーのシステムエンジニアで、デザインが直接仕事ことに関係している訳ではない。しかし、デザインのセンスは資料作成の中でも求められ、そういう観点からのデザインの教育を受けた。
ぼくたちは二日間の中で幾つかの課題が与えられ、デッサンをしたり、広告やプレゼンテーション用の資料をデザインした。
ぼくは子供の頃から絵が好きだった。それは絵と言うよりも落書きに近いかも知れないけれどとにかく何かを描いているのが好きだった。課題を与えられたぼくは、ぼくなりの感覚で自由にデザインをした。
ぼくは夢中になって課題に取り組み、制限時間が終えた後の発表の時には毎回他の受講者から感心の溜め息を受けた。講師はぼくの作品は着眼点が他とは違うと言って誉めた。それはそうだ。ぼくにはぼくだけにしかない感性がある。誰にも真似できないし誰の真似でもない。
ぼくが絵を描いて初めに誉められたのは小学校の二年生の時で、どんな絵を描いたかは今でもよく覚えている。
左半分が昼の世界で右側が夜の世界、太陽と月が照らし出す地上では交通事故が起きていて救急車とパトカーが走っている。そして色彩が強烈だった。
実際に交通事故を目撃した後に描いたから、きっとそんな絵になったのだと思う。自分ではかなり気に入っていたのだが、家族を含めて大勢の人は気味が悪いと言った。だけど、そんな絵がコンクールで金賞を取り、友達や家族処か親戚の人達までが挙ってその絵を観に行った。だけど結局ぼくの元に戻って来なかった。あの絵はどこに行ったのだろうか。
教育の最終日のことだった。休憩時間を終えて席に戻ると、机の上に演習の回答用紙が置かれていた。
「01 51 4-1 55 3-4 80 3.3 52 65 9|4 71 3-2 4,1」と書かれていたが、ぼくには理解できなかった。
所属と氏名が書かれていたので、ぼくは誰かが間違えて置き忘れたのだなと思って、講師に渡した。そして、教育が終わった。
その時の回答用紙がこの手紙で言うメッセージを指しているらしかった。見知らぬ女性からの得体の知れない手紙、それに駅の改札でずっと待っているなんて言われても、今時冗談とも本気とも区別が付かない。
ぼくは手紙について納得をするために次の日になって差し出し人に電話を掛けた。しかし彼女は出張中で、謎は深まり困惑するばかりだった。しばらくして彼女から電話が掛かって来た。それが彼女と話した最初だった。
彼女の声は細く言葉遣いは丁寧だったが、手紙で五分でいいから会いたいと書いている割に単調な会話だった。
彼女とは、金曜日の午後六時半に駅の改札で待ち合わせをすることになった。教育で一緒だった筈なのだが、電話で話した声の主は教室の中にいた女性の姿と結び付かなかった。一体どんな女性なのか検討が付かなかった。しかし、どう考えてもまともじゃない。期待はできないな、とぼくは自分で自分に言い聞かせた。
そして金曜日になった。