「噂じゃないよ。余程の練習を積んで行かないと酷い目に遭うよ。このメンバーは楽しむためのスキーじゃなくて、雪と格闘するためにスキーをするんだから」
 荷物を積み終えた矢部が歩いて来ながら真剣な顔でそう言った。


「俺達は典型的なスキー馬鹿だから」
 町田はそう付け足した。


 彼等は車に乗り込み、彼女に見送られて駒沢競技場を後にした。車は環七通りから目白通りを抜けて関越自動車道に入った。彼等は運転を交替しながら車の中で昼食を取った。


 車の流れは順調で昼過ぎには月夜野インターを降りて三国街道を走っていた。窓から見る山肌は白く化粧され、道の両端に積み上がった雪が今年の雪の多さを物語っていた。
 

 苗場の大斜面ゲレンデは芋洗い状態で、コブ毎に人が転がっているようだった。町田達はコース終端にある待ち合わせ場所に集まっていた。町田と矢部はブーツのバックルを締め直していた。
「混んじゃってて全然だめだな」
 と、古淵が言った。


「仕方ねえよ、土曜の午後だから」
 と言いながら、矢部は立ち上がった。町田はブーツの調整に手間取っていた。矢部と古淵はスキーを踏み付け、雪の感触を確かめている。雪質は上々だった。


「さて、次は何処を滑ろうか」
 と、町田が立ち上がりながら言った。


「女子リーゼンに行こうか。今度は俺がビデオを撮るよ」
 と、矢部が応えた。彼等は雪面を力強く踏み蹴ってヘアピンを滑り降りて行った。


 急斜面の上部に町田と古淵が並んでいる。このゲレンデはコブの深い上級者コースであり、右側は崖になっているためそれほど混雑していなかった。コースの下では矢部がビデオカメラを構えている。矢部は左手を振って合図を送った。古淵が合図を受けて滑り始める。彼は上体をしっかりと安定させ、コブの谷間から谷間へと跳ぶように降りて行った。町田がビデオカメラの方に視線を向けている。滑り降りた古淵が大きくストックを振り上げた。彼はそれを確認するとビデオカメラを目指して滑り出した。

 

 町田はコブへの入射角を浅く取り、スピードに乗ったウェーデルンで直線的に急斜面を攻めた。その時、コースの脇で立ち止まっていた女性が斜滑降で滑り出し、彼の進もうとするライン上で転倒した。彼は咄嗟にダブルストックを突いて方向を変え、衝突寸前の所で大きく右に避けた。


 町田はゲレンデの端に寄り、崖沿いのロープの脇で息を整えていた。その少し上方では別の女性がコブに飛ばされて暴走を始めた。深いコブに囲まれている彼はその事に気付かず、再スタートをしようとストックを振って合図した。次の瞬間、悲鳴を上げながら女性が落ちて来て、後ろから突き飛ばすように彼に激突した。彼はその衝撃で成す術もなくコース外に弾き飛ばされた。矢部と古淵の叫び声がゲレンデに響いた。


 町田が崖の下に倒れている。スキー板は雪に突き刺さり、折れ曲がったストックが身体の側に落ちている。そして頭の付近の雪が血で赤く染まっていた。スキーパトロールが町田の身体を担架に乗せた。彼等は担架を深緑のシートで包み、スノーモービルのサイレンを回しながら彼を運んで行った。


 ホテルの中にある診療所の受付前の長椅子に矢部と古淵が座っていた。その向かい側には町田に衝突した女性がいて、瞳を潤ませながら心配そうに手を合わせている。頭に包帯を巻いた町田が処置室から現われた。彼は足を引き摺っていた。


「どうだった」
 と、矢部が尋ねた。彼等の視線は町田に集まった。


「参ったよ。二度とスキーはできないって」
 と、町田は真剣な顔で答えた。


「本当に」
 と、古淵が声を上げた。


「私の所為で・・ごめんなさい」
 堪えていた涙が溢れ、彼女は頬を濡らしながら謝った。


「ごめん、冗談だよ。ほら」
 町田はそう言って笑った。そして元気そうにウェーデルンの真似事をして見せた。彼女は張り詰めていた緊張の糸が切れ、崩れるようにその場に座り込んでしまった。


 町田はサングラスで額を切ったが、他は軽い打ち身程度で大事には至らなかった。彼は彼女と賠償について話す事になり、矢部と古淵は二人を残してゲレンデに滑り行った。


 町田は彼女とホテルの喫茶店にいた。彼女の名前は成瀬由美と言った。彼女はスキー保険に入っており、治療費と折れたストックやサングラスの賠償は保険会社に連絡してからと言う事になった。二人はコーヒーを飲みながら話を続けていた。


「あっ、そうなんだ。以外と近くに住んでいたんだ。じゃあ、やっぱり通勤は横浜線を使っているの」
「そうです。それなら気が付かないだけで同じ電車に乗っていたかも知れませんね。こんな形で会うなんて、偶然って不思議ですね」
「だけど、さっきは殺されたかと思ったよ」
「私も驚きましたよ。町田さん、倒れたまま動かないし、雪に血が付いているのが見えたから、死んでしまったのかと思いましたよ。そうしたら私は殺人者でしたね」
「本当だよ。全く、こんな所で世間話をしながらコーヒーを飲んでる場合じゃないよ」
 二人は笑った。


「でも、一人で女子リーゼンを滑っていたなんて、まさか一人で苗場に来ていた訳じゃないよね」

 

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