第1章 僕が出会ったコスプレの彼女

第2話改 僕が捨てたコトと拾ったモノ(2)


 僕が2年前の滞在中にスキー場で経験した出来事は、単なる思い出以上のものとして心に残っていた。

 

 血を流している野生のウサギを胸に抱え、息を切らしながら旅館に戻った。旅館の入口で目にしたその光景に、若女将は目を丸くして驚きの表情を浮かべた。しかし彼女は嫌がりもせずに応急手当を手際良く施してくれた。そして知人の動物病院を紹介してくれ、車で連れていってもらった。

 

『治療費は僕が負担します。どうかこのウサギを診察してください』

 

『山から怪我をしたウサギを連れてきたのですか?』

 

 動物病院の一室で、院長が驚きの声をあげた。その表情は驚きとともに、少しの疑念や懸念が交錯していた。

 

『これは珍しいケースですね。普段は野生動物を治療する機会が少ないんですよ』

 

 彼は声を抑えつつ、診察をしながら野生動物に人間がどう関わるべきかを話してくれた。『野生は野生のまま、人間が助けてはいけない』が基本で、僕の行為は正しいとは言えないが、間違ってもいないらしい。

 

 ウサギが診察台の上に横たわりながら治療を受ける姿を、僕と若女将が見守っていた。そのウサギには他の動物に噛まれた跡と、スキーかスノーボードと接触したと思われる打撲傷があった。院長の見立てでは、他の動物に襲われて、慌てて逃げている最中にコースに飛び出て人間と接触した可能性が高いようだ。院長は『禁止されている救護行為とは言えない』と判断した。ただ、山に戻れるだけの回復は、現状ではわからないと言われた。

 

 ウサギは治療を終え、僕はウサギを入院させずに旅館に連れ帰ることにした。ウサギの診療費は不要だと言われ、受け取ってもらえなかった。院長はペットの診療以外に、野生動物の保護活動もしているから、診療費はその活動の一環として無料にしてくれたんだと思う。僕は旅館のオーナーや若女将に許可を取り、ウサギを段ボール箱に入れて一緒の部屋で過ごした。

 

『そのウサギを神社の近くで見つけたなら、何か縁あるウサギなのでしょうね。聞いたことがあると思うけど、あの山には色々な言い伝えがあって、ウサギを連れた雪女や雪ん子が、道に迷った人を助けたとか、人を連れ去ったとか……。そのウサギも、雪女や雪ん子のお使いかもね』

 

 そう言って若女将は笑っていた。

 

 突然、旅館の奥から、年老いた男性が姿を現した。

 

『さっき、ウサギの話を聞いたよ』

 

『あっ、おじいさん!』

 

 若女将が驚きの声を上げた。

 

 彼は若女将の祖父であり、先代のオーナーだった。ふわふわの白髪と、時を経た深い目を持つ、この地域に住む知恵者のような存在だった。

 

『すみません。野生のウサギを部屋に上げてしまって』

 

『いいや、それはいいんだよ。法律がうるさくなる前は、ワシも山から動物を拾ってきたもんだよ。この山にある神社は小さいけれど、本社は京都にある立派な神社で、全国にある分社の一つなんだ。山の伝説や伝承は雪女や雪ん子の話ばかりだが、祀られているのは、水の神様であり、雪の神様だよ。山の動物たちは、ウサギに限らず、猿や熊も神の使いと言われているんだ』

 

『じゃあ、大事にしてあげないとダメね。ウサギの世話、頑張ってね』

 

 男性に続けて、若女将が笑顔で僕を励ましてくれた。

 

 ウサギは弱っていて、自力で箱の外には出られなかった。エサもほとんど食べなかったが、身体を撫でてあげると、その小さな目に感謝の光が宿り、安心して目を閉じた。僕はスキーをしている間もウサギが気になった。だからお昼は部屋に戻っておにぎりを食べ、午後も早々に切り上げて部屋に戻った。ウサギの世話はとても楽しかった。エサを小さく切って手から食べさせてみたり、箱の中に暖かい布を敷いてあげたり……。

 

 だけど2日目の朝、僕が段ボール箱の中を見ると、ウサギはもう息をしていなかった。僕は野生に戻せなくても、命だけは助けられると思いこんでいた。山に帰せないのなら、親に相談して、自分が引き取ろうとも思っていた。とても悲しく、自分の無力さが虚しかった。

 

『本当に残念だったわね。動物病院に報告に行こうか?』

 

 若女将の問いに僕は小さく頷いた。

 

『今度はワシが車で連れて行ってあげよう』

 

 旅館の先代のオーナーがそう言ってくれた。

 

 僕が、ウサギの亡骸が入った段ボール箱を持っていくと、亡骸は動物病院で引き取ってくれた。そして院長からは、『ウサギの死を看取ったことは無駄ではない』と諭された。院長からその言葉を聞いた瞬間、僕の胸の中で何かが解れるような感覚がした。自分の行為が全て無駄ではなかったと認めてもらえたからだろうか。

 

 動物病院からの帰りの車の中だった。

 

『亡骸を山に戻せなかったが、あれは山のウサギだ。神社に行って、きちんと報告をしたらいい』

 

『神様に怒られますよね』

 

『そんなことはない。助けようとしたことを、神様は感謝してくれるはずさ』

 

『そうですかね……』

 

 旅館に戻った後、僕はスキー場にある神社を訪れた。神社の周囲に広がる深い森の木々の香りが感じながら、亡くなってしまったウサギの冥福を祈った。

 

(ウサギを助けることができず、また山に帰すこともできませんでした。ウサギの亡骸は山に戻せなかったけれど、荼毘に付されて空に帰ったと信じています。次にこのウサギが生まれ変わったとき、幸せに生きられることを心から願っています)

 

 空を見上げると、青く澄んでいた。ウサギを助けられなかったこと、それが運命なのか、自分への罰なのか、答えはわからない。神社の奥から微かに聞こえてきた鈴の音は、少なくとも僕自身のあり方を考えるきっかけを与えてくれたような気がした。

 

――◆

 

(2年前は、カッコつけたけど、結局はウサギを救えなかった。でも後悔はない)

 

 2年前の出来事を思い出し、胸が締め付けられるような感じがした。座椅子に深く座り込み、少し目を閉じて、その時のことを思い返した。ウサギの柔らかな毛、冷たくなったその体…。自分の手ではどうすることもできず、ただ運命に任せるしかなかったのだ。

 

 その経験が自分を少しでも成長させてくれたのではないかと言い聞かせた。過去のことを悔やんでも、過去は変えられない。しかし、後悔することは他にもたくさんある。過去の選択、心に残る痛み、ここに来たのはそれを忘れるため。そして、再び雪山と向き合うことで、自分自身と向き合いたいと思った。

 

 感傷に浸った後、少しずつ気持ちを切り替え、僕はテーブルにあったお茶とお茶請けをいただいた。お茶を飲みながら窓の外を見た。新しい雪が積もっているのを見て、心が少しずつ軽くなっていった。深呼吸をして、スキーウェアに着替えた。

 

(せっかくスキーに来たんだ。気持ちを切り替えて楽しまなきゃ)

 

 部屋を出て、スキー道具を預けた乾燥室に向かった。スキーの板とストックを手に持ち、深く息を吸い込んで、旅館の外に出る。新しい雪の匂いと冷たい空気が、新たな始まりを告げていた。

 

(2年ぶりのスキー場、ここから始めよう!)

 

 雪山を見上げ、僕は高校2年の冬休み以来となるスキー場に向かった。空には灰色の雲が立ち込め、雪が降り始めそうだった。

 

 

  つづく

 

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