雪の国への代表の訪問に際し、東の大国が要望を出した。それは、現世で冬に行われている平和の祭典を模倣し、代表を歓迎してほしいということだった。更に、人間が雪上から空に飛ぼうと挑む姿を、直に見てみたいと依頼された。どうやら彼らは、現世でのジャンプ競技に興味を持っていたようだ。
かなり無理な注文だったが、雪の国は断りきれなかった。このため雪姫が現世から常世に連れてくる人間を探していたようだ。そして僕が見つかり、雪の国に呼ばれたというのだ。
(いやいや、やはりこれは夢だろう……。それにジャンプ競技って、本当にフリースキーやスノーボードのジャンプのことなのか?)
僕は、夢の中で夢だと自覚する、明晰夢を見ることがある。ただ、目が覚めると記憶が薄れ、少し経つとすっかり忘れてしまう。2年前の夏、京都で窃盗犯と争って気を失った時も、確か明晰夢を見たと思う。
「それでは、アキラ様。女王様と雪姫様がお待ちです。こちらへどうぞ」
そらの指示に従い、部屋を後にする。なぜか心がざわつく。部屋から漂ってくる馴染み深い匂いに、何となくの懐かしさを感じる。しかし、具体的な記憶は掴めず、心の中に小さなもやもやが広がる。そんな自分の気持ちを振り払うように、ゆっくりと足を進める。
――
ここは大きな木造の建物の中だった。小さいそらに合わせ、長く広い廊下をゆっくりと歩く。しばらく歩き、そらと一緒に大広間の中へと入った。
「女王様、アキラ様をお連れいたしました」
大広間の奥には、2年前の夏、京都で出会った透明感のある髪を持つ美しい女性がいた。その隣に雪姫がいて、反対側に背の高い着物の男性がいる。その周囲には、白い着物の女性と子ども、巫女姿の少女や二本足で立つ猿と狐、そして剣を持った白い着物の男性が立っている。
他にも巫女姿の女性など和服の人が多かったが、大広間の左側には、異なる装いの集団が立っていた。その中でも、他の人たちと違う洋装の人物が二人いた。一人は教会のシスターのような姿の女性、もう一人は白い礼服姿の男性だった。
(京都で出会った女性がここにいるなんて……信じられない。でも、この姿は間違いなくあの日の彼女だ)
「アキラさん、お久しぶりです。再会を心待ちにしていました」
(混乱と驚きで、言葉が出ない。京都で出会った女性が雪の国の女王だったのか?)
「あの日、あなたがここでの記憶を、自分の世界に持ち帰らない方が良い、と考えました。だから、あなたの記憶を封じていました。ただ、こうして再びこちらに来たのですから、もう思い出しても構いませんよ。あなたが以前、ここで過ごされたときのことを」
(記憶を封じた?……やっぱり、あの部屋の匂いに覚えがあるのは、錯覚じゃない)
僕は確信した。女王の言葉が、頭の中で連鎖反応的に響き渡る。そして頭の中で、何かの鍵が開かれたような感じがしたのだ。
忘れていたことが頭の底から溢れ出て、ここでの全てを思い出した。
2年前の夏、僕はここに来たことがある。
◇――
あのとき、僕は窃盗犯にナイフで抉るように刺されたのだ。身体を支えられずに倒れ、重くて鈍い痛みを感じた。その痛みが和らいだと思ったとき、とても良い木の匂いがする部屋にいた。
(まるで森の中にいるかのようだ)
僕の胸の上には、柔らかな光を放つ一人の女性の掌がある。刺された傷の痛みはなく、自分が何かしらの治療を受けたことを理解した。見上げると、その女性は窃盗の被害者だった。
僕が目を開けたことを確認すると、彼女は僕の胸から手を離した。ふと背後に目をやると、奥から心配そうに少女が覗き見ている。
ぼんやりしながら起き上がり、彼女から盃を受け取った。何も疑わず、その中の水のようなモノを飲んだ。
(味はしないけど、冷たくて美味しい……)
飲み終えると、意識がはっきりとし、身体の力も戻った気がした。
『それだけの量の聖水を飲めば、もう大丈夫ですね。しばらくすれば、傷ついた臓器も元に戻ると思います。私が油断していたばかりに、大変申し訳ありませんでした』
彼女は優しく声をかけてくれた。
『お母様も大変でしたね。まさか盗みにあうなんて』
『本当に驚きました。周囲に大勢の人がいましたから、力を使うことを躊躇っているうちに逃げられました』
『お母様、この方は、奪われそうになった持ち物を取り戻してくれた、大事な方ですよね』
『ええ、そうです』
『では、せっかくの久しぶりのお客様なのですから、お帰りになる前に、私がこの国を案内したいです』
『……いいでしょう。但し、治癒が終わるまでの少しの間だけですよ』
(この二人は母娘なのか……)
母親がそう答えると、娘と思われる少女が、僕を部屋の外に連れ出した。
『私は雪姫。あなたのお名前は?』
『アキラだよ。でも、ここはどこなの?』
『ここは常世の雪の国、アキラたちがいる世界とは別の世界にあるの』
『えっ、常世って、死後の世界? もしかしたら刺されて死んだの?』
『ううん、アキラは生きている。元の世界から転移して、別の次元の世界に来ているだけだよ』
雪姫は僕が刺され、死の危機にあったので、母親が僕を雪の国に連れてきて治療したのだと説明した。
『ここが別の次元にある雪の国だって? 神様や死者の世界なの?』
『神様ではないけれど、現世からすれば死者の世界とは言えるかもしれないわね。現世と常世では、様々な生命エネルギーが循環していて、死者の魂もその一つだから。現世での生命活動が活発になると、常世に循環するエネルギーが増えるのよ』
雪姫は、二つの世界のことを話してくれた。元々、物理的にも精神的にも現世と常世は一つの世界だったようだ。拡張する宇宙の変化と共に、上位の世界が誕生した。それは、人類が文明を築くより前の時代で、その時に精神的な活動を具現化できる上位次元に移り住んだのが、雪姫たちの祖先ということだった。
『ここが上位次元の世界なのか……信じられないな』
『じゃあ、ゆっくり案内するね』
僕と雪姫が建物の外に出ると、目の前に雪に覆われた広大な平原が広がっていた。それは見たことのない美しい光景だった。
つづく